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 富士に登る(1)

五合目にキャンプ場

 昭和四十一年夏、富士山五合目に御高生たちの歓声が響いた。完成したばかりのキャンプ場で、テントの設営や水運びに汗を流し、飯ごう炊さんでの食事、夜のキャンプファイアーで盛り上がった。宝永山牛額登山にも挑戦した。予定の二泊三日はあっという間だった。

 この年の春、着任早々の二人の地理教師、沢田真養と竹端節次は教頭二ノ宮祐一(故人)に「富士山ろくに御高のキャンプ場を造るぞ」と声を掛けられた。体育教師時代を含め通算十六年籍を置いた二ノ宮は、登山やキャンプに詳しく、山岳部経験のある二人に実働部隊として目を付けていた。

霊峰に学ぶ精神脈々と

 キャンプ場造営は、既に校長渡辺竹雄(故人)が断を下し、学校やOBの協力で富士山五合目の国有地を借りるめども立っていた。二ノ宮らは雪解けを待ってジープで現地に入り、夏の開設に向けての作業に取り掛かった。樹林の間にテントを張る場所や火をたくファイアーサイトを整え、ごみを埋める穴を掘った。最大の課題は水の確保。沢田は「大きな貯水タンク兼簡易給水設備を取り付けたが、水源の渓谷まで離れていたためバケツでの水運びが大仕事だった」と振り返る。

 生徒たちはHRや部活などの仲間四―六人ぐらいでグループを作り、数グループずつ交代で訪れた。クラスの悪友ら五人で参加した林永野(旧姓岩田、昭42卒)は「富士山に行ったのは初めて。朝、立ち込めていた霧が流れ、視界が開けていく様はすがすがしく感動的だった」と思い起こす。交代で泊まり込む教師たちの負担は大きかったが、「生徒も教師も夜遅くまで人生観や教育論を互いにぶつけ合った」と沢田。雄大な富士山の懐に抱かれ、気分は高揚していた。

 飯ごうなどの炊事用具を置く棚も用意され、水の確保を除けばキャンプ場として整っていた。しかし長続きはしなかった。オープンした年が明けての冬、付近で雪崩が発生。貯水タンクが流され、設備が破壊されて、命の綱ともいえる水が使えなくなった。無残な姿に関係者はあ然とした。この年の夏は満足にキャンプが張れたかどうか、記憶は定かではない。後に竹端は「何年か後に行ってみたら、二基あったタンクのうち一基が残っていた。今はどうなっているのか」と短命に終わったキャンプ場を懐かしむ。

 御高生と富士山は切っても切れない縁がある。「富士に登り、富士を学ぼう」。その精神はさまざまに形を変え、今も脈々と受け継がれている。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。


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