<10>

 歩み(商業科の併設)(4)

廃止変えた卒業生の団結力

   金融恐慌で深刻な不況に見舞われた昭和初期。北駿地方の養蚕農家は、輸出生糸の価格暴落で大きな打撃を受けた。授業料が払えず就学が困難になったり、学校を出ても就職口がないという状況で入学志願者が激減し、中途退学者も続出した。家を継ぐことができない農家の二、三男対策と新たな就職の場の開拓を目指して、商業科設置の動きが本格化した。


 タイプライター実習に取り組む二種の生徒たち(昭和14年、「70年のあゆみ」から)

 昭和八年、第五代校長秋口常太郎(故人)が県知事と文部大臣に面会して了解を取った上で、農商併置認可を文部省に提出した。御殿場町長ら周辺町長があらかじめ県に陳情するなど根回しもしてあった。しかし、文部省の事務担当官は「農業科と商業科の併設は全国に例がない」と難色を示す。秋口は文部省局長会議に出席して実業の意味するところなど併設の意義を訴えた。農業科、商業科を表に出さずに農業を一種、商業を二種とすることで、やっと翌九年の開設にこぎつけた。農、商の両科を備える実業学校は全国でも珍しかった。

 二種の入学資格は尋常小卒で、修業年数は五年。一種が三年、女子部が四年で最も長く在学した。元来が農業学校のため、すべての農業科目と実習が組み込まれ、不満がないわけではなかった。「大根販売からタイプライター実習まで農商混交で、まさに実業科」と幾田裕男(昭16卒)。履修科目は多いときには一学年で二十五にも及んだ。秋口校長が招請した商業科主任石川光義(故人)や教諭子上一郎(故人)は諸設備を整えて教育内容の充実を図り、内外に宣伝して卒業生の就職をあっせんするなど労を惜しまなかった。

「農商混交」にもめげず 

 二種は幾度か存続の危機に瀕した。昭和二十一年、御高講堂で開かれた同窓会役員総会の席で、第六代校長鈴木金作(故人)は「農業科一本にしたい」と二種廃止を提案した。ざわめく会場が静まった時、在校時に二種の級長だった岩田信一(昭17卒)がサッと手を挙げ、「それはおかしい」と反対。二種の卒業生たちも岩田に続き、「土に親しむ商業の育成」という中間案が通って存続が決まった。長田央(昭21卒)は「戦後の食糧難で農業を重視したのだろうが、みんな自分の学んだ科に誇りを持っていたからね」と、商業科を守った卒業生の団結力を語る。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。


掛中・掛西百年史 榛原高100年史  静岡新聞へ