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 歩み(戦時の援農)(5)

空襲で九死に一生の体験も

 太平洋戦争へと突入した昭和十六年、御高は旧満州(現中国東北部)で食糧増産を手伝う「興亜学生勤労報国隊」に選ばれた。県内では引佐と二校だけ。藤曲五松(昭16卒、故人)、杉山侃(昭16卒、旧姓野木、故人)ら十人が学校推薦と本人の志願を基に選抜された。


 ふるさとを離れ、北海道で農作業に従事する生徒たち(昭和19年、「70年のあゆみ」から)
 全国の農学校が主体で、旧満州の大平原で汗を流して鍬(くわ)を振るって畑地を開墾し、種をまいた。期間は三カ月。帰路は北満から奉天、大連などを見学して戻った。藤曲は「畑仕事は一日も休みがなく、つらかった。今思うと、旧満州各地を見学でき、楽しい思い出」と九十周年記念誌に寄せている。翌年は二十人が参加した。

 援農は旧満州だけではなかった。国家総動員法が昭和十三年に公布され、中等学校以上の生徒、学生は県内勤労作業に駆り出された。御高は北駿地方の出征軍人、戦死傷者の家庭に生徒を派遣。男女とも一日に約三時間半、田植えや稲刈りなどの農作業に従事し、炊事など家事を手伝った。裾野市須山や小山町須走などの遠方もすべて徒歩。地下足袋が切れて裸足(はだし)で往復した生徒もあった。

満州や北海道で農作業

 昭和十八、十九年は、ジャガイモの大産地である北海道の河西郡中札内村や士別市で援農。二、三人ずつ各農家へ分宿した生徒たちは、見渡す限り広がる畑を馬で耕し、種芋を植え付けた。一軒一軒の農家が離れていたため、現地の教官による軍事訓練で月に一、二度集合するほかは仲間と会うこともなかった。ほとんどの農家はランプ生活で娯楽もなかったが、御高生を温かく迎えてくれた。生徒たちも作業を苦にせず、授業の実習や卒業旅行だと思って働いた。鈴木定男(昭21卒)は昭和六十三年、四十四年ぶりに援農先を訪問、「当時小学生だった方が覚えていてくれて、旧交を温めた。今も親せき付き合いをしています」と戦時に生まれた出会いを大切にする。

 袋井市や雄踏町など県西部にも動員された。大箕正之(昭22卒)らは昭和二十年五月、援農先の浜松市内で大空襲を受け、九死に一生を得る体験をした。

 東京、横浜地区の学童集団疎開を受け入れた御高は女子の転入生が増加し、一クラス百人近い学級もあった。校舎内に本土決戦に備えた「決部隊」の師団司令部が置かれ、東京農業教育専門学校も疎開してきて、授業は大変困難になった。それでも生徒は、軍事演習と勤労奉仕の合間を縫って、勉学に励んだ。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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