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「学校は百年、二百年否、永遠の生命を維持しなければならないのでありますから、永遠の若さをもって、不断の創造と発展とを遂げなければならないのであります」。昭和二十六年十一月、故・秩父宮雍仁親王は御高創立五十周年記念式典に出席し、祝辞を述べた。学校の発展要素に生徒の向学心、教職員の教育意欲、卒業生及び父母の愛校心の三つを挙げ、「いつの日か当校の名声が、皆さんが朝に夕に仰ぎ見る富士山の如く、日本国内ばかりでなく世界に知れ渡るときの来ることを私は祈って止まない」と締めくくった。
秩父宮さまの思い出は、昭和二十八年発行の生徒会誌「剣ヶ峰」創刊号に詳しい。第七代校長鈴木金作(故人)は「お供もなしで両陛下お揃いで学校の玄関前に来られ、驚いて飛び出してお迎えした私どもに『今日は肥料をもらいに来たよ』とおっしゃった」。当時教頭の山本清(大14卒、故人)は、宮家の電熱温床を使った陸稲の移植栽培や種なしスイカの試作などに触れ、「これと思われる事々は積極的に取り入れられ、栽培に御工夫されて行われた」としのぶ。 気さくなお人柄で、四十五周年記念式典(昭和二十一年)や昭和二十四年の文化祭など学校行事にも足を運ばれた。昭和二十五年の体育祭では呼び物の一つ仮装行列をご観覧し、御高生の力の入った演技・競走に拍手を送られた。 秩父宮さまは昭和二十八年一月に亡くなられ、東京・豊島岡斎場での葬儀の列には御高生代表の十人が加わった。山崎勝正(昭28卒)は「簡素な式場に掲げられた写真は、やや右側を向き私たちを優しく見つめているようだった。これで永遠にお別れかと思うと感慨無量、しばし我を忘れて御前にたたずんだ」と振り返る。 御高は毎年、秩父宮さまから図書購入金や、所有する農業書、スポーツ関連書などの寄贈を受けた。その書籍数は約二百冊にものぼる。「秩父宮文庫」と命名され、御高図書館に残るコーナーが、宮家との交流を伝えている。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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