![]() | <17> |
衆院副議長、社会党(現社民党)委員長を務め、平成元年に死去した勝間田清一(大14卒、故人)をしのぶ会が今年三月、沼津市内で開かれた。記念講演した伊藤茂社民党副党首(元運輸相、六月末の衆院選で引退)は「先生の業績は何日かかっても語り尽くせない。社会党の中に大きな山脈をつくった」とたたえた。
勝間田は昭和二十二年、三十九歳で衆院初当選。以来当選は十四回を数え、在職は三十六年六カ月に及ぶ。後援会青年部の中心メンバーだった勝間田正規(昭39卒)は「清進会には三百五十人以上の会員がいたが、社会党の党員は一人もいなかった。衆院選だけは清一っぁんという人が多かった」と明かす。 毎回、選挙が近付くと御殿場市仁杉の勝間田家に親類一同が顔をそろえ、活気が満ちた。父親は田畑で働いている人たち一人ひとりに帽子を取って頭を下げて回り、多くの支援者が腰に手弁当をぶら下げた「腰弁」姿で駆け付け、元気よく飛び出して行った。勝間田は「皆さんの票は真珠の玉のようだ」とねぎらった。 昭和五十年代に二度、ウグイス嬢を務めた鈴木礼子(昭36卒、旧姓池谷)は「『公平に』が口癖で、私のマイクにもきちっと耳を傾け、表現が的確なときには励ますように大きくうなずいてくれた」。勝間田が地元入りすると、待ち焦がれた人たちが沿道を埋め、中には慌ててはだしで飛び出してきた人もあった。両の手をちぎれんばかりに振り、熱くなった目頭に手ぬぐいを当て絶句する農業者と、白い手袋を外して「おお、○○っあん元気か」と声を掛ける勝間田の姿が今も鈴木の目に焼きついている。 街頭演説はマイクを通さなくても声が通り、発音がはっきりしていた。義妹の勝間田田鶴子は「兄さんのお骨を拾ったとき、声帯がピンと張って、白く残っていた。斎場の方に、『職業は存じませんが、いい声をした方だったんでしょうね』と声を掛けられた」と打ち明けた。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
掛中・掛西百年史 榛原高100年史 静岡新聞へ |