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 勝間田 清一(2)

農業政策に関心募る

 勝間田清一(大14卒、故人)が初めて社会主義運動に触れたのは御高時代であった。入学した大正九年当時は乙種三年制の農業学校だったが、その後甲種五年制に昇格し、十二年には県立に移管された。一方で、十三年卒からは中学校卒の資格が得られることになったため、いったん社会に出た卒業生たちが再入学してきた。


勝間田(前列中央)は友人らと野球部を創設し、主将、エースとしてチームを引っ張った
 再入学者の一人に、後の社会党代議士山崎剣二(大7卒、故人)がいた。社会主義を信奉し、警察からマークもされていた。ある時、同じクラスに編入していた山崎から「有名な作家が僕の家に泊まりに来るから話を聞きに来ないか」と誘われ、友人たちと出掛けた。居合わせたのはプロレタリアート文学の作家たちだった。翌日、駐在所の巡査から「昨晩集まったのはだれか。あの連中は危険思想の持ち主だから注意しろ」と忠告される。これが警察にとがめられた最初の出来事である。

学業優れスポーツ万能

 御高時代の勝間田は五年間級長を務め、全科目で「甲」を取った。石田清作(大14卒)は「いつも首席で、良きリーダー。決して威張ることがなく人格者だった」と証言する。

 スポーツマンでもあった。受験準備に取り掛かる五年生までは恵まれた体格を生かしスポーツに熱中した。テニス、柔道、剣道をこなし、陸上は十種競技の万能選手。中でも得意だったのは短距離走だ。百メートルを11秒台で走った。杉山藤雄(大14卒)は「百メートル、二百メートルはいつでも断然トップ」と二位以下を大きく引き離していた勝間田の雄姿を思い起こす。

 大正後期はスポーツ熱が高まった時代。御高でも桑園をつぶしてテニスコートを整地し、農場をならして一周二百メートルのグラウンドを造った。勝間田は友人たちと野球部創設に動く。農業科教諭石川清(故人)に道具をそろえてもらい、ユニホームは借金をして作った。エース兼主将とチームの大黒柱の勝間田は、後に御高教頭を務める山本清(大14卒、故人)とバッテリーを組み、活躍した 。

 勝間田は宇都宮高等農林学校(現宇都宮大農学部)に新設された農政経済科に推薦入学を果たす。経済不況や農村問題が関心を集め、農業政策の中堅幹部養成を掲げた学科に大きな魅力を感じていたことは言うまでもない。「父の希望通り農業を受け継ぎ、長男の責任を果たしながら、郷土のために役立ちたい」。そんな思いがあった。

 ついには政治を志すことになるが、農業への関心はその後もずっと持ち続けた。

(文中敬称略)  

【注】カッコ内は卒業年。


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