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六十年ほど前、湯山五策(昭2卒)は東京駅前で、勝間田清一(大14卒、故人)にバッタリと出会った。声を掛け、行く先を尋ねる湯山に、勝間田は小声で「事情があって家で暮らせなくなった。妻の病死後、娘を一人で育ててきたが、今後当分同居できそうにない。親せきに預かってもらうため、(御殿場の)仁杉へ行くところだ」。湯山は「幼い女の子を連れたその顔はいかにも寂しそうで、何か重大なことが身の上に振りかかっているように思った」とそのときの様子を語る。
宇都宮高等農林から京大農学部へと進んだ勝間田は、卒業すると、財団法人協調会の農村課に勤めた。地主と小作の対立が厳しい農村での実地指導などの仕事に勝間田の心は踊り、没頭した。やがて農村班として内閣調査局入りし、十二年には直属の総合国策立案機関「企画院」の調査官に昇進、若手の革新官僚ともてはやされる。だが、時代にほんろうされ、暗転する。 当時の弁護士会の大物、海野普吉(故人)は同じ静岡県出身のよしみから、無報酬で弁護を引き受け、裁判の証人に立った先輩たちも説を曲げることはなかった。
独房二年、保護観察二年を経て終戦直後の二十年九月、無罪の判決を勝ち取る。義妹の勝間田田鶴子は「家族みんなが心配した。夫(勝間田の実弟、一夫=故人)の勤め先はアルバイト禁止だったが、こっそり夜学で簿記を教えて獄中に送金した。監視の人にも優しい人がいて、兄さんに親切にしてくれたそうです」と語る。 当の勝間田ですら「真相を問われても、確信を持って答えられない」と首をかしげる企画院事件。京大時代に社会科学研究会に参加し、逮捕された前歴が口実を与えたのか、あるいは当時の国内情勢に伴う政治的策略だったのか、判然としない。 母親と妻が相次いで世を去ったあとの”手錠と編みがさ”生活であり、勝間田にとっては悲運をかみしめた時期でもあった。妹の中見幸子(昭13卒、旧姓勝間田)は「私が嫁ぐとき、兄から『人生、だれでも”落ちる”ときがある。それを覚悟して、落ちても立ち上がらなければならないよ』と諭された。この事件のことを思いながら言ったのでしょう」と振り返る。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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