<2>

 富士に登る(2)

韋駄天の注目、富士登山競走

  大正の初め、山岳マラソンがブームを呼んだ。口火を切ったのが、富士山を舞台にした駅伝やマラソン大会。第一回富士登山競走(大正二年)は、日本が初参加した前年のストックホルム五輪のマラソン選手金栗四三が発起人に名を連ねた。コースは太郎坊から富士山頂へ一〇・五キロ。懸賞金が付き、富士山頂へ駆ける「男のロマン」と、全国の韋駄天の注目を集めた。選手枠十人に千百四十二通の応募があった。

 御高生は当初、二合目から五本松にかけての沿道に配置されて応援を担当し、地元青年団や消防団らとともに大会運営を裏で支えた。チームとしての初登場は、大正十三年七月の富士登山往復駅伝競走。距離は四七・六キロ。御殿場駅前を出発点に、五本松、太郎坊、三合目、七合目の四中継所を置き、山頂で折り返してゴールの新橋、浅間神社を目指した。

勝つ誇りと意気込み示す

 「御殿場市体育史」によると、根上、伊倉、岩田、長田、土屋の御高チームが、強力(ごうりき)梶房吉らの組に次いで2着でゴール。記録はトップから2分遅れの、5時間22分12秒だった。地元の選手は山間に強く、平坦な一区で遅れても山岳地で巻き返した。以降、昭和十四年に中止になるまで御高と地元青年団が活躍。細谷泉(故人、大15卒)は九十周年記念文集で、在学中の一番の思い出に「七合目で日本一の選手金栗さんと床を並べて寝たこと」を挙げている。

 戦中、戦後の中断を経て富士登山駅伝は昭和二十六年に復活。御高OBと御高が1、2位を独占し、「駅伝は御殿場が勝たなければ」の誇りと意気込みを示した。中大で箱根駅伝に出た安藤寿雄(昭20卒)は「速く走る人より、心肺の強い仲間を」と山室経営者渡辺政一(故人、昭16卒)や強力大胡田謦吾(昭21卒)に出場を頼み、OBチームを結成。山を熟知した大胡田が頂上付近でトップに立ち、優勝につなげた。

 「登りはひざに手を当てて歩くようにして走り、下りの砂走りでは腹巻きをして急激な標高の変化から内臓を守った。上ばかり見ていたらつまずいてしまうので、下を向いてひたすら走る。人生と同じですね」と陸上部の土屋久(昭27卒)。人一倍の体力と技術、根性が要求された。登山競走は二十九年まで四回行われ、顧問の二ノ宮祐一に率いられた陸上部は好成績を残す。その後五十一年に復活したが、御高は調整を理由に欠場している。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。


掛中・掛西百年史 榛原高校百年  静岡新聞へ