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企画院事件で無罪を勝ち取った勝間田清一(大14卒、故人)は重要肥料製造業組合の理事として戦後を歩み始める。戦災で壊滅的打撃を受けた化学肥料工業の復興を担った。企画院時代の友人らと語らい、昭和二十二年四月の衆議院選挙に社会党公認で立候補し、三十九歳で初当選した。
社会党こそ戦後日本の再建にふさわしいと確信していた勝間田は、大先輩の申し出を断り、最下位ながらも議席を得た。この時、社会党は衆参両院で第一党となり、勝間田は誕生した片山内閣で経済安定本部の秘書官を務めた。「残念ながら社会党にはまだ政権担当の準備ができていなかった」と述懐する。
当選十四回、在職三十六年六カ月。左派社会党に属し、国会対策委員長などほとんどの役職をこなし、四十二年には中央執行委員長に。社会党の理論センターを担ってきた勝間田は対話の政治を訴え、内閣を担当したらどんな政治をやるかと模擬国会を試みた。だが時に利あらず、社会党は低落傾向が顕著に。参院選での敗北の責任を取って委員長を退き、再建を成田知巳らに託す。 委員長在任はわずか一年余。「人間は生きようと思っても生きられない、死のうと思っても死ねない時がある。これを本当の有情という」と心境を吐露した勝間田は、「選挙で敗れて委員長が辞めることは私を持って最後に」と呼び掛けた。願いもむなしく、後継の委員長は選挙の敗北で次々と引責辞任。「党自体を立て直さず、辞任でごまかす風習が続く」とぐちをもらすこともあった。五十八年から二年半、衆院副議長に在任し、議員生活を退く。 勝間田の温厚な人柄と信念を貫く姿勢は党派を超えて評価され、人間としても慕われた。地元からは選挙のたびに「もし保守党だったら」の声が続いたが、勝間田には戦後日本の再建を社会主義に見い出だそうとしてきたことが誇りだった。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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