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御殿場市の市制施行は昭和三十年二月。新市誕生の喜びも冷めやらぬうち、初代市長の座を、市長職務を代行してきた御殿場町長と、戦後の追放が解除されて町村合併推進協会長を務めた元代議士の勝又春一(明40卒、故人)の大物同士が争うことになった。 勝又は早稲田工手学校(現早大理工学部)を経て山梨県庁の技師となり、二十七歳で退職。土木建築工事の岳南組を創業、東京に本社を置いた。三十九歳で政友会から代議士に当選し三期。岳南組は満州(現中国東北部)に進出し、送電線工事で名をはせた。身長百五十センチそこそこだが、肝っ玉の大きさや面倒見の良さには定評があった。「風雲児」とも呼ばれた。
初めての御殿場市長選挙は衆院選と重なった。勝又が石橋湛山元首相の後援会長だったこともあり、湛山会―(勝間田)清一党、遠藤会(元建設相遠藤三郎後援会)の連合軍という様相を帯びた。激戦の火ぶたを切る告示日の朝、勝又は行動隊長として遊説のトラックに乗り込むことになっていた側近で御殿場青果組合長中村重男(大7卒、故人)を呼び出す。「オレは下りる。選挙はヤメだ」。あ然としながらも聞き出すと、「明後日に会社(岳南組)が銀行から差し押さえられる」という。打つ手はないか―。中村は山林の処分を提案し、義きょう心に富んだ買い手も運良く見つかった。 中村らは「春一っつぁんらしい一幕。選挙は四百票弱の小差で勝てたし、山林もその後、買い値以上で売れて安心した」と綱渡りに胸をなで下ろした。 勝又が市長に就任して二年半後、米地上軍が本土から撤退し、なし崩し的な自衛隊の演習場の利用が拡大する。根拠なき演習場使用と自衛隊不法立ち入り禁止訴訟が起き、正面からは東富士演習場地域農民再建連盟が動く。勝又は再建連盟委員長として政府との交渉にあたり、三十四年六月、東富士演習場使用協定が結ばれる。この間、社会党代議士勝間田清一(大14卒、故人)と手を組み、演習場内の入会権を政府に認めさせるなど徹底して農民の側に立った。 数多いエピソードの一つとしてよく語られるのが、党派を超えた勝間田との人間関係。勝又ははっきりとは言わなかったが、「表立って担げるか、考えてみろ。だけど絶対に落っことすなよ」と周辺は受け止め、スケールの大きさをしのぶ。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年 |
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