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ボルネオ島東北部のマレーシア・サバ州ケニンガウ郊外の平原を「ヤマザキロード」と呼ばれる約二十キロの直線道路が貫いている。太平洋戦争中、ケニンガウ県知事だった山崎釼二(大7卒、故人)が自ら現場監督となり、ジャングルを伐採して造った飛行場兼用の道路だ。今も現役の幹線道路として、「南方県唯一の名知事」と慕われた山崎の名を伝えている。
昭和六年に全国労農大衆党、七年に社会大衆党の常任執行委員に就任した山崎は沼津市議、県議を歴任。十二年四月の衆院選では、三十七歳で静岡二区のトップ当選を飾った。幼いころから山崎の演説会をよく見に行った長男の嶺一は「いつも特高警察が来て目を光らせていたが、話上手で人気があり、木戸銭を取っても客が満員。自慢の親だった」と演壇姿を鮮明に思い出す。
戦争が拡大の一途をたどり、聖戦貫徹議員連盟の要請で相次いで政党が解党した。社会大衆党も昭和十五年に解党。活動に限界を感じた山崎はアジア進出を見込み、南方に活路を開こうと考える。十七年四月、妻子を残して単身、神戸ふ頭から焼津の漁船に便乗してボルネオに密航した。 現地日本軍のボルネオ守備隊参謀長は山崎の人柄に感じ入り、陸軍司政官に採用した。東南アジア最高峰キナバル山に程近いケニンガウ県知事に任命された山崎は、通訳とたった二人で任地入りし、現地の人を驚かせた。権力をかさに着る統治者に対して反乱を起こしたこともある土地だったが、山崎の赴任後、ケニンガウは治安の良い県として知られるようになった。「原住民の青年を集めて四つの親衛隊を構成し、それぞれの隊にフビライやニコライなど皇帝の名を付けた。この親衛隊が父の指揮によく従ってくれた。父もまた、民衆の立場に立って統治したのでしょう」と嶺一は話す。 戦後、帰国した山崎は藤原と離婚。政治活動を再開したが、昭和二十九年、ブラジルに渡って就農し、五十七歳で客死した。嶺一の妻、雅江は「情熱家で、年を感じさせない若々しさがあった」と義父をしのぶ。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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