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 小見山和訓(元東京駅長)

忘れられない先導役

 「東京駅は日本の顔、東海道線は日本の大動脈。小山の実家から御高まで、山の中でクリを拾ったり、仕掛けた鳥の罠(わな)を見ながら通った、田舎出の自分によく務まったと思いますよ」と小見山和訓(昭30卒)。平成四年から二年間、JR東海の東京駅長を務めた。

 平成五年、ご成婚後初めて外出され伊勢神宮に向かう皇太子ご夫妻を、詰め掛けた都民や報道陣の前で先導した。ご夫妻との距離は約五メートル。先導役は振り返ることが許されない。「時々立ち止まっては声援におこたえになるお二人との間隔を、先先導の駅助役の合図で保った。雲の上を歩いているようだった」と緊張の“お役目”を思い返す。

 東京駅では、各国元首を迎えて駅構内を案内したり、政財界の大物たちを各地に送り出した。マドンナやマイケル・ジャクソンなどが来日したときは、熱狂的なファンの「追っかけ」に見つからないよう、乗降場所を工夫した。

京葉線の旅客化を立案  

 一方で、駅構内を根城にして券売機の釣り銭の取り忘れを集めたり、自販機の下の小銭を拾って暮らすホームレスもいる。「多額の現金を置き忘れても届け出なかったり、雨が上がったからと新品同様の傘をごみ箱に突っ込んでいく人もいるのに。人生の縮図を見た思いです」とポツリ。

 旧国鉄に籍を置き、上智大で学ぶ。駅員や車掌など現場経験を踏み、国会での総裁の質疑応答を記録・管理する本社文書課に勤務。その後、営業部や旅客局、保安課などを転々とし、主に、輸送力の増強に取り組んだ。

 昭和五十年ごろ、横須賀線と同じ線路を走っていた東海道線の利用者は飽和状態だった。小見山たちは貨物用線路の利用と増線、東戸塚駅と新川崎駅の新設などによって横須賀線を別の線路上に移し、混雑緩和を図った。

 最も思い入れが強いのは京葉線。当初の予定は川崎の工業地帯から千葉の木更津まで、都心を通過せずに湾岸沿いを抜けて走る貨物線だった。だが、輸送需要は小回りの利くトラックへの切り替えが進み、人の流れも東京の一極集中が加速した。小見山らは貨物線を転用した新旅客線「京葉線」の設置を立案した。

 工業用に埋め立てられた当時の湾岸地域は住人が少なく、利用客不在を心配する声も根強かった。折しも建設中の東京ディズニーランドは「年間目標千二百万人。一人が年に五、六回通うテーマパーク」を目指し、旅客線への切り替えを後押しした。京葉線新木場―蘇我間は六十三年に開通。臨海開発はさらに進み、利用者は増える一方だ。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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