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昭和五十五年、狭心症の発作で御殿場市内の病院に入院中の県農協四連共通会長、江藤栄(中退、故人)を農協全中会長、農林中金理事長、家の光会長の農協全国組織の重鎮三人が訪れた。役員が総辞職し後継者問題で揺れていた全協連会長就任の懇請だった。江藤の秘書・巨藤好孝は「江藤会長は断ったが、皆さんは主治医のところへ行って、『容体に問題はない』と聞いてきた」と病院内でのやりとりを思い返す。
退院後も三顧の礼を尽くす熱意に、江藤は根負けした。職員全員を集めて行った就任あいさつでは坪内逍遙原作の「桐一葉」を引用。「難攻不落と言われた大坂城だったが、人の和がなかった。名将、豪傑も大勢いたがまとまりがつかず、結局、外堀から内堀まで埋められ豊臣家は滅びた。全協連もこのままもめ事が続けばつぶれてしまう。心を一つにして外に当たっていこう。病身の私が先頭に立つ」と呼び掛けた。 大きな目、厚い唇。江藤の風ぼうは、どこか、西郷隆盛を思わせる。「慎重でち密。状況を判断するときには軽々しく口を開かず、情報を集めて検討、熟慮したうえで指示を出した」と、前県農協中央会長鈴木脩造。共通会長室秘書室長だった増島芳美も「包容力に富んだ指導者」としのぶ。
「輸入自由化・枠拡大阻止」の鉢巻き姿を思い出す関係者も多い。昭和五十年代、米国は膨大な対日貿易赤字の代償に牛肉、オレンジなど農畜産物の市場開放を要求してきた。農畜産物輸入自由化・枠拡大阻止運動の県本部長に就任した江藤は、決起集会をまとめたり、当時の中曽根総理や自民党三役に全国連の会長らと直談判するなど、生産者の先頭に立った。 江藤は玉穂村字ぐみ沢(現御殿場市)の大農家で、七人兄弟の長男として生まれた。御高二年に進学して間もなく、父が亡くなり、母は病に倒れ、中退を余儀なくされる。何とか学業を続けようと中央工学校へ入学したが、祖父も倒れたため、勉学をあきらめた。 戦後間もない玉穂村農協組合長時代には、行政も受けなかった国民健康保険の事務を農協で代行し、農協の一角に診療所を開設して組合員の健康を管理した。二十六年、県議に初当選し、県議会議長や自民党県連幹事長、同総務会長などの要職を歴任した。県会は五期二十年。農協県信連会長に推されたのをきっかけに引退した。約四十年間、農協関係の役職に携わった江藤は「農協は組合員あってのものだ」という姿勢を貫いた。昭和五十七年、七十七歳で県農協五連の共通会長に就任。信用業務のオンラインシステム開発、各種ローンの創設など農協の近代化に力を入れた。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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