<3>

 富士に登る(3)

1年生必須の学校行事

 日中戦争のぼっ発、昭和十六年の太平洋戦争突入と戦時色が強まる中、つばの大きな麦わら帽子をかぶり、金剛杖(つえ)を手にした御実の女生徒たちは一列になって斜面を一歩一歩登り、富士山頂を目指した。


 恒例の富士登山。生徒の40%が山頂を制覇する(平成7年)
 「頂上にたどり着いたものの、ふらふら。でも楽しかった」(増田幸子=昭17卒、旧姓渡辺)、「天候が悪く頂上まで登れなかった」(横山美代子=昭20卒、旧姓湯山)、「御来光は拝めたが、霧が出て雨が下から持ち上がるように降った」(中村すみ=昭21卒、旧姓鵜飼)とそれぞれに思い出を語る。このころ、戦勝祈願のため富士山を訪れる登山客が急増し、富士登山協会が御殿場町長に登山者用の米の特別配給を申請した時代だった。

 いったん途絶えた御高の富士登山は昭和三十九年に山岳部の主催で再開する。一泊二日の募集登山。部員や顧問が「富士山をもっと知ろう」と熱っぽく呼び掛けたが、参加者不足から中止を余儀なくされた。四十一年に五合目に設けたキャンプ場も雪崩で設備が壊されたりして短命に終わった。学校行事として定着するのは五十九年になってからだ。

頂上制覇、昨年は4割

 赴任したばかりの校長近藤昭三は富士登山の経験を尋ねてがく然とする。頂上まで登った生徒はわずか七%。「在学中に一度は登らないと卒業証書を渡さないと言いながら学校全体で取り組んだ。先生方にも『富士山のような人になって』の富士山を知らないのではしょうがないから、率先して登ってもらいましたよ」と愉快そうに振り返る。

 一年生が対象で、不参加者は二年生で登る。当初は須走口五合目で二、三時間体を慣らしてから登り、八合目で一泊。翌朝、御来光を仰ぎ、余力のある生徒はお鉢巡りをして御殿場口へと下りた。長く数学を教えた木村和彦は「引率は気が休まらないが、生徒たちとの一体感があり、やりがいがあった」。宿泊は頭と足とを交互にして横になった後は身動きも取れず、眠るどころではなかった。

 現在は費用や安全を考慮して一日に短縮し、コースも頂上か途中か、自分の健康状態に合わせて選択するようにしている。頂上制覇を目指す生徒が多く、昨年は四〇%が山頂を極めた。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


掛中・掛西百年史 榛原高100年史  静岡新聞へ