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庭木、盆栽として珍重される清楚な桜に、リョクガクザクラ(別名ミドリザクラ)がある。大正五年ごろ、富士山ろくの植物を採集・研究していた初代校長山出半次郎(故人)が見つけ、御殿場に滞在していた植物学者牧野富太郎のところへ持ち込んだ。開葉前に花が咲く小型のマメザクラの仲間で、萼(がく)の部分が赤みを帯びず、緑色になることから、牧野は「緑ガク桜」と命名した。学名は発見者山出にちなみ、プルヌス・インシサ・ヤマデイとつけられた。
山出は東京生まれの士族で、歴代で最長の十七年を勤めた。実直な人柄で、生徒をいさめるときも声を荒らげず、涙で道理を説いた。昭和四十六年夏に明治・大正時代の卒業生を集めて開かれた座談会で、小野高徳(明41卒、故人)は「涙を出して泣きながらの訓戒には頭が下がった。だから当時の卒業生には先生の教えが染み通っている」と、真しな教育者を思い起こしている。 九十周年記念文集になると、モーニングコートにシルクハット、白手袋の堂々たる礼装姿を回顧する卒業生が多い。御殿場駅を通過する天皇のお召し列車を奉送迎するいでたちだ。駅のホームで全校生徒と職員の先頭に立ち、「最敬礼」の号令を下した。
甲種昇格と県立移管に尽力した二代、友添佐一(故人)は太っ腹で明朗な九州男児。在任中の大正十二年の関東大震災では、職員にてきぱきと指示を出し、生徒を励ました。山本清(大14卒、故人)は生徒会誌「剣が峰」で、「このときほど先生に対して、畏敬の念と信頼の度を高めたことはなかった」と、たたえる。 震災の翌日、御高の被害状況の調査に訪れたのが、当時、県庁の学校設置主任官だった五代秋口常太郎(故人)。柔道着を着て生徒と共に荒行をこなし、座禅を組むなど、率先垂範して質実剛健の校風を示した。薫陶を受けた生徒も多い。二種(商業科)創設に加えて昭和十一年、農家の長男など農業後継者の生徒を集めた特別クラスを編成し、農業経営の知識と精神を教えた。参加した勝又武雄(昭15卒)は「冬の、まだ星が見える早朝にリヤカーを引き、豚の飼料用に残飯を集めて回った。寒くて辛かったが、根性と友情が培われた」と振り返る。 教室増築のために東奔西走した六代奈良和夫は昭和十七年に急逝し、学校葬で全校生徒に送られた。後任の鈴木金作(故人)は授業もままならない戦時下の御高を支えた。戦後は部活動奨励や文化祭の復活、秩父宮殿下を迎えての創立五十周年記念式典開催など、生徒の意気高揚に努めた。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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