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戦後、普通科廃止で名実共に実業学校になり、「進学準備にとらわれず、真の意味での人間教育を施す絶好の機会」と考えたのが、地元小山町出身の十代渡辺竹雄(故人)。開校記念日の行事として昭和三十九年、数年来途絶えていた全校マラソンを復活させ、「自分の足音を聞いて走れ。苦しくなったら歩いてもよい。ただし、一歩前進してから」と、“自己との戦い”を呼び掛けた。毎年、千人余の職員生徒とともに走り、質実剛健の精神を自ら示した。
また、「たくましいものの中に本当の美しさがある。逆境に立ってもすさんだり、いじけることなく、いつも心は明るく美しくあるように」と願い、昭和四十三年、校訓「質実剛健」に「美しく」を加えて現在の教育目標とした。 十三代鈴木清見はプールやテニスコートなどの施設を整備した。「裾野市葛山にある学校林の手入れに何度か行ったが、卒業生をはじめPTAや地域の方、みんなが参加してくれた。『おらが学校』の意識が強く、何かあると卒業生たちが学校に集まり、相談事をしたり、街づくりの話をしていた。御高は地域の中心だった」と、懐かしむ。現富士市長。
心身を鍛錬するクロスカントリーを学校行事に取り入れたのが十六代近藤昭三。山梨県の山中湖を出発し神奈川の三国峠、静岡の明神峠など三県にまたがる全長二十七キロのコース。壮大なスケールでありながら交通量が少なく、道中に信号が一、二カ所しかないのが自慢だった。「自分で見て歩いて決めた。職員やPTAの参加希望も多かったが、生徒の安全指導に徹してもらい、私は当日まで秘密にしておいて、走った。『おれに抜かれるなよ』と言って最後尾で出発したが、何人かは抜いた」
単身赴任の校長が多いなか、家族を連れて着任。嫁いだ娘も校長住宅に里帰りして出産し、地域の人々から「腰を据えて御高運営に取り組んでもらえる」と歓迎を受けた近藤は、「皆さんの気持ちにこたえて頑張らねば」と奮起した。 十八代須田纉夫は、情報・通信関連工場が多い北駿地方のニーズと時代のすう勢にこたえて商業科を情報ビジネス科、家政科を情報デザイン科に改め、新たに工業科に当たる情報システム科を設けた。「PTAや同窓会、地域の方など皆さんが大変協力的で、やりがいがあった。情報が重視される今では、先見の明があったと自画自賛しています」と笑う。 須田とともにコース制導入に尽力した県高校教育課指導主事の佐伯建が、須田の後を継いだ。工業科教師の佐伯は設備を整え、情報三科の基礎を築いた。 (文中敬称略) |
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