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 ストライキ(上)

熱情通じ文部省が認可

 大正十三年二月、授業ボイコットの意思を固めた最上級生たちが、校庭隅のツバキを植えた小高い丘「椿(つばき)山」や、学校南側の吾妻神社に集まった。

 静かな山村を揺るがす初めてのストライキ。発端は町村学校組合立から県立への移管が決まり、十三年卒の生徒から中学卒の資格が得られることになったにもかかわらず、文部省の認可が下りなかったことにある。


ストを決行して中学卒の資格を取り付けた大正13年の卒業生

 中学卒の資格がなければ徴兵検査に合格しても幹部候補生の受験資格はなく、公務員の採用試験に合格しても文官昇任資格が得られない。卒業を間近に控えた生徒たちは不安を募らせた。 土屋一夫(大13卒、故人)が生徒を代表して学校側と交渉し、鈴木繁(大13卒、故人)らが同級生を引き連れて立てこもった。軍資金として三十銭を集め、文部省に抗議の電報を打った。

 林晧一郎(大13卒)は「担任が来て『授業に復帰してくれ』と言ったが、私たちは頑として応じなかった。スト決行までは模範学級と言われていたのに、先生を泣かせてしまった」と回顧する。同盟休校に打って出て数日が経過したが、成果は現れない。菅沼万三(大13卒、旧姓岩田、故人)はその間の緊迫した状況を九十周年記念文集に「吾妻神社は学校と至近距離にあり、ストライキ戦術が漏れる心配があったので、集合場所を西田中八幡神社に移動し、情報収集と今後の対策を熟議した」と記している。

 中学卒の資格求め決起    

 ストライキはたちまち町や住民らに伝わり、保護者からも中卒の認可を求める声が上がった。前年四月の県立移管に尽力した御殿場町長勝亦国臣(故人)が役員らと県や文部省に出向き、認可を取り付けた。

 林の記憶だと、ストは一週間ほど続いた。二学年下の勝間田多住(大15卒)は「先輩たちの運動は知らなかったが、資格がもらえるようになったと先生から聞き、皆で大喜びした」と振り返る。

 土屋は「ご心配をお掛けしました」と自ら退学届を提出したが、時の校長友添佐一(故人)は生徒らの止むに止まれぬ心情をくみ、謹慎処分にとどめた。卒業後、リーダーの二人は教職の道を歩む。土屋は小学校校長を経て御殿場市教育長になり、鈴木は高校校長を経て小山町長に就任した。

 土屋は教員仲間の後輩、元中学校長湯山五策(昭2卒)に「僕はストライキをやったことがある」と打ち明け、「強い願いを持ち、自分は犠牲になってもいい気持ちでやらなければ駄目だ」と語ったことがある。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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