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 小山分校(1)

36年間に1000人余の卒業生

 小山町吉久保の町生涯学習センターのグラウンドには、かつて、御高小山分校が建っていた。昭和六十年、県立小山高創立に伴って同校の定時制に移管されることになり、三十六年間に千人余の卒業生を輩出した分校の廃校が決まった。その年の秋、校舎は取り壊された。「分校があったときは同窓会をやったり、文化祭を見に行った。校舎がなくなり、足が遠のいてしまった」と、島昌子(昭42卒、旧姓勝又)は寂しがる。


昭和41年に完成した小山分校独立校舎。今は取り壊され、町のグラウンドになっている=小山町吉久保

 昭和二十三年、夜間制普通科の小山分校の設立が認可された。同時期に定時制を設けた県立三十一校のうち、分校を創設したのは御高と下田第二高の二校だけだった。御高職員と、町立小山中の全職員が開校準備に当たり、同年九月二十日夕方、小山町藤曲の成美小で九十二人の生徒が開校式に臨んだ。旧小山富士紡青年学校の建物内に職員室と宿直室を設け、成美小の二教室を借りての授業が始まった。

 教育資材や施設には不備が多かった。長い渡り廊下は申し訳ばかりの裸電球があるだけで、職員や生徒は手探りで歩いた。物資の不足している時代で、出入り自由のために泥棒に狙われ、履物を盗まれることもあった。社会と商業を教えた高橋亘(故人)は「子供の机、腰掛けで体がはみ出し、窮屈だった。薄暗いので、板書は黄色いチョークを使った」と、五十二年に開かれた座談会で苦労を語った。

 肩身の狭い“借家”時代    

 一年後の二十四年十二月、分校は新築落成した小山中に移った。二十七年には使用教室すべての蛍光照明施設が完成。学習環境は格段に改善された。

 しかし、今度は別の問題が持ち上がった。当時、小山中の運動場は富士紡が所有・管理していて、小山中が借用していた。分校は「また借り」だった。必修科目の体育の時間でも、富士紡のチームが使用していれば遠慮せざるを得ず、中学生が練習していれば追い払うわけにも行かない。「借家住まい」のつらさを切実に味わった。

 四十一年十月、念願の独立校舎が誕生した。建物は、同時期に改築工事を行った御高本校の古い木造校舎を利用した。太い柱や階段の厚い板を使った頑丈な作りで、赤く塗られた屋根が生徒たちの心を明るくした。「小山中時代は『昼間の子供の机を勝手に触ってはいけない』などと言われたから、新校舎は気が楽だった」と、鈴木武市(昭42卒)は肩身の狭さから解放された喜びを語る。

 グラウンドも追って整備され、四十七年には体育館が完成した。今は分校の形跡はなく、関係者の間から「記念碑を建てたい」という声が上がっている。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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