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 富士に登る(4)

山頂のレーダー昨秋廃止

 気温はマイナス三〇度、風速二〇―三〇メートルの風が足元から吹き上げる厳冬の富士山頂。元気象庁運輸技官、芹沢早苗(昭16卒)は、最長の約十二年を山頂で過ごした。芹沢が平成三年に刊行した写真集「富士山頂」は、厳しくも美しい富士山の自然を生き生きととらえる。芹沢は「あまりの寒さにシャッターが凍り付いて動かなくなったり、バッテリーが壊れたりした」と苦難を思い起こす。この間に買い替えたカメラは十台余り。使えなくても、「戦友だから捨てられないんだよ」と、自宅の棚に並べて置く。

 農家の長男に生まれた芹沢は、「跡を継ぐつもりはないし、尋常小卒でも入学できるのなら」と二種商業科に進んだ。測候所は、学校から紹介されて「徴兵までの二、三年のつもりで」と勤めた。

観測と身の安全を両立

 勤務体制は三カ月単位。男ばかり五、六人が寝食を共にする山頂勤務が一カ月、御殿場口の太郎坊避難所で十日間、残りはふもとの御殿場基地事務所で働いた。山頂勤務の時、妻の登志枝(昭24卒、旧姓小野)は「毎日近くの神社にお参りし、無事を祈った」。登はんにけがはつきものだったが、昭和三十二年二月末、悪天候のため三時間での下山が三日間かかり、遭難騒ぎになった。「頭の中が真っ白になった」と登志枝は振り返る。

 元三島測候所長永井亨(昭20卒)も昭和四十六年まで二十六年間、富士山測候所に勤めた。永井には「気象観測に加え、生きることも立派な仕事だった」という思いが強い。昭和四十一年冬、意識不明に陥った同僚を山頂からヘリコプターで降ろしたことがある。「エンジンを止めたら、寒さでかからないかもしれない」と操縦士に言われ、やむなく回転するプロペラが雪を舞い上げる中で患者を乗せた。「感無量。涙が止まらなかった」と永井。同僚の病名は肺炎、無事に回復した。

 富士山は大自然の不思議を実感させてくれる。永井は自然現象「ブロッケンの妖怪(ようかい)」を二度見た。「山頂で下にある雲や霧に自分の影を映すと、周りに七色の光の輪が見える。私が手を上げれば影も手を上げる。まるで虹(にじ)の中にいるようだった」。今も脳裏に焼き付いている。

 芹沢は山頂での生活を「宇宙船」に例える。「街がはるか遠くに見えて、宇宙の広大さに比べれば地球も小さい、人も小さい。でも御来光を拝んでいると生きているんだなあ、としみじみ思う」。

 二人が厳しい自然と闘って観測を続けた山頂の気象レーダーは平成十一年秋、その役目を終えた。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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