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「学校の行きも帰りも通る道 街灯の暗さに心痛みぬ」「ねむり魔に耐えて机に向かいつつ 人の世の厳しさを切にかみしむ」。小山分校文芸部が毎年編集、発行した文集「つくし」には、定時制生徒の心情が詩や短歌、作文などでつづられている。
故郷を離れ、働きながら学ぶつらさは並大抵ではない。二十二年間勤務し、最後の卒業生を見届けた教頭広野正は「生活体験文を書かせたが、苦労している生徒が多いので胸に迫る作文ばかりだった。授業中に居眠りをしている生徒がいても、昼間一生懸命働いていることを知っているので、起こせなかった」と思いやる。
自衛隊の訓練は午後五時に終わる。分校に通う隊員は急いで食事をとり、勉強支度を整え、駐屯地ごとにカーキ色をした大型トラックに乗り込む。普段は自衛隊の制服で通学したが、時には支度の時間が足りなかったり、野営地など訓練先から通ったときは、迷彩服で登校する生徒もいた。 富士学校総務課総括幹部の小鶴高史(昭51卒)は上司から「これからの自衛官は高校ぐらい出ないと。通ってみないか」と勧められて入学を決めた。「勤務を交代してもらったり、訓練を早退させてもらうときは心苦しかったが、周囲の理解と応援で卒業まで続けられた」と上司や仲間に感謝する。同援護センター援護室長の吉村勇(昭50卒)は「テスト前には演習先にも教科書を持っていった。大変だったが、自衛隊の試験でも役立ったし、分校時代の頑張りが今につながっている。今でも隊員同士で思い出話をします」と笑顔を見せる。 階級や入隊年数が異なる自衛官が同じ教室で学ぶこともあったが、分校ではただの同級生として付き合うのが決まりだった。挫折しそうな隊員に先輩が自らの経験を語り、アドバイスする伝統が生まれ、受け継がれてきた。 毎日厳しい訓練に耐えているだけに、体力に自信のある隊員が多かった。県高校スポーツ大会で昭和四十四年から十五年連続で優秀校に入り、最優秀校にも何度か選ばれた。クラブ活動でも、昭和五十年夏の全国定時制陸上競技大会に四人が県代表として参加し、静岡県チームの総合優勝に貢献するなど、活躍した。 (文中敬称略) 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。 |
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