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 小山分校(3)

張り切った分校祭

 分校の授業は午後六時に始まる。「早飯」が用意される自衛隊員以外の生徒は夕飯も食べずに駆け付けることが多く、休み時間に食事をすませた。昭和二十五年から校内でパンが売られた。無人販売にもかかわらず、売上金に不足がないのが自慢だった。事務員の遠藤和江は「カップラーメンがはやり、生徒が『お湯くれ』と言ってよく職員室にきた。授業中に何かを口に入れている人はいなかった」と振り返る。


生徒も職員も学校行事を楽しみにしていた。予せん会で(昭和55年ごろ)
 一日の仕事を終えた成人生徒が空腹と同じくらい耐え難かったのがたばこだ。開校当初はほとんどが未成年だったが、次第に成人が増えて認められた。喫煙できるのは教頭室のみで、二十歳以上を証明する許可証を見せてから一服した。灰皿は当番制で片付けた。

 下校は九時過ぎ。「友達とのおしゃべりに花を咲かせる間もなく帰途についた」と林かつよ(昭40卒、旧姓遠山)。佐々木大助(昭36卒)は「家へ帰るとバタン、キューで寝てしまう。宿直の先生がいたので学校で勉強した。電灯が暗いので女生徒を狙った痴漢が出没し、体の大きい同級生と一緒に取り締まったこともある」と懐かしむ。

 苦楽共に、今なお交流    

 土、日を利用した遠足やキャンプ、スキー教室など学校行事を楽しみにした。仕事の都合がつかないときもあったが、大半の生徒が参加した。分校祭も盛り上がった。元教頭の広野正は「手に職を持つ生徒が自分をアピールするいい機会だし、お客さんも来てくれたので皆張り切った。模擬店で大きな鍋を二つも持ってきて、一日前からカレーをかき回すプロはだしの生徒もいた」と思い起こす。

 岩田和子(昭32卒、旧姓今野)は「四年生の修学旅行は本校三年生と一緒で、知人から御高のセーラー服を借りて行った。運動会も本校でやり、長距離はいつも分校の方が強かった。分校と本校両方の校歌を覚えている」と話す。独立校舎ができるまでは卒業式も本校と合同だった。

 本校との兼任教師が多いなかで定時制主事の岩田次郎(故人)や社会と商業を教えた高橋亘(故人)は二十年以上分校に勤務し、慕われた。教師と生徒の仲が良く、分校出身の数学教師川本重夫(昭37卒)は「普段は教師として付き合ったが、時には生徒と一杯やった」と明かす。四十年代後半からは新卒教師の赴任が増え、年上の生徒を指導したり、各自の勉強の進み具合の差が大きい分校での教え方に悩むなど、定時制ならではの体験を積んだ。

 分校が閉校して十五年が経った。卒業生は全国各地に散っているが、現在も同窓会が盛んに行われている。「分校に行けば先生や友達がいて、仕事が辛くても忘れられた。明日も頑張ろうと思えた」と加藤和子(昭37卒、旧姓大友)。苦楽を共有した分校生の結び付きは強い。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年


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