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 勝又広太郎(農学博士)

「豪傑節」のニンジン博士

 「おいらは農場で肥料(こえ)担ぎ 日本園芸背負って立つ 意気は尊い血は燃える もんぺ娘にゃほれられる」。後にニンジン博士の異名を取る勝又広太郎(昭17卒、故人)は盛岡高等農林(現岩手大)卒後、見習生として勤務した国立園芸試験場二宮種苗育成地(神奈川県二宮町)で自作の数え歌「豪傑節」を高らかに歌い、場内の人気歌となった。


ニンジンの花の形態や開花習性を観察する勝又さん(昭和39年、園芸試験場久留米支場で)
 終戦直後の物資が乏しい時代で、試験場職員らは本来の業務である研究よりも、農村の復興と食糧不足の対策に追われていた。自分たちの食糧確保もままならない生活の中で、職員の志気を大いに高めた。

 勝又が生涯の師と仰ぐ、園芸・農業研究の権威、熊沢三郎(故人)との出会いも二宮だった。幼少に父を亡くしたこともあり、父と慕った。

 昭和二十二年、久留米市に設置された国立園芸試験場に熊沢と共に赴任、根菜類を中心に幅広く研究した。昭和三十九年に短根ニンジンの研究で農学博士となり、「ニンジン博士」「ニンジンの広太郎」として名声が広まった。生産者や消費者からニンジンに関する相談や問い合わせが相次ぎ、カナリアの愛好家が「いいニンジンを与えると鳥の体色が良くなるが、どの品種がいいだろうか」と尋ねてきたこともあった。

 野菜普及へ全国で講演    

 「多くの人においしい野菜を知って食べてもらいたい」が信条で、全国各地で精力的に講演を行った。生徒には兄のように接し、夜は野菜をさかなに酒を飲みながら野菜談議で盛り上がった。愛知県農業技術大学校長を最後に退職した後も、畑を借りて自ら耕し、近所の農家の相談にも気軽に応じた。

 愛知県瀬戸市の自宅には「ニンジン」「タマネギ」「キュウリ」など野菜の名がついたアルバムが数十冊。在来種や品種改良してできた新種など、野菜だけを写した膨大な量の写真がまとめられている。妻のいく子は「家族の写真より多いくらい。主人が八台のカメラを使って撮影し、大事に保存していたものなので整理が進まなくて」と苦笑する。

 庭に目を向けると、樹齢二十年ほどの枝垂れ桜と山桜があった。「枝垂れ桜は生まれ故郷の御殿場市仁杉から、山桜も富士山ろくのもの。丹精込めて育てていました」といく子。平成七年に勝又が亡くなってからも、桜は毎春、見事な花をつける。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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