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神経の興奮、利尿などの作用があるカフェインは戦時、航空機操縦士の眠気覚ましや兵士の興奮剤として重宝された。元静岡カフェイン工業所社長渡辺儀作(明40卒、故人)は静岡特産の茶からカフェインを抽出する技術を研究し、実用化した。 渡辺の生家は山林業。「これからは日本がどんどん発展していく時代。山に埋もれたくない」と一念発起し、東京薬学校(東京薬大)に進む。卒業後、薬剤師の資格を得た渡辺は、創業間もない静岡カフェイン工業所(静岡市)に技術者として招かれ、同じ薬学校の卒業生森謙治郎(故人)とともに入社した。 同社は大正三年に日本で初めてのカフェイン製造に成功し、工業特許を取得していた。茶葉を燃やしてカフェインを昇華させる方法を採っていたが、茶葉に含まれるカフェインも一緒に燃えてしまうため、収量は含有量の約半分だった。
より効率よく、低コストで製造しようと、渡辺と森は昇華以外の方法を模索した。実験を重ねた二人は他分野で使われていた「向流抽出」という方法を応用し、ベンジンなどの溶剤を使って茶葉とカフェインを分離、抽出することに成功した。抽出作業を連続して行う機械も考案した。昭和二年、渡辺らの研究の成果を詰め込んだ新工場が静岡市内に建てられ、本格的な生産が始まった。 原料には製茶過程で発生する茶の粉末を使った。粉末は使い道がないので、一般の農家が安く譲ってくれた。自前の原料をと、伊東市の一碧湖周辺に当時では日本一の広さの二十一ヘクタールの茶園を開いた。渡辺の長男の明は「会社が荒れ地を開墾して作った畑で、伊東茶園と呼ばれた。原料にするだけでなく、製茶も行った。自分も手伝いに行ったが、手摘みなので人手が三十人いても足りないほどだった」と懐かしむ。 戦争が激化するにつれ、カフェインの需要はますます伸びた。会社は台湾やインドネシアなど国外にも茶畑を広げた。渡辺も軍の命令を受けてジャワ島に渡って六千ヘクタールの茶園を管理し、現地に抽出工場を建てる手はずを整えたが、操業前に終戦を迎えた。 戦後、化学合成の技術が進歩し、安価で大量のカフェインを生産できるようになった。一方で、原料にしていた粉末の茶が飲料に使われるようになり、値上がりした。昭和三十九年、同社は体質改善し、ほかの医薬品原料を開発販売するようになった。 技術者として、また専務取締役として長年会社を支えてきた渡辺は、昭和四十年に社長に就任したが一年で退き、後進に道を譲った。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年 |
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