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 部活動(女子バスケ)(下)

受け継がれるフェアプレー

 夏の全国大会で優勝校と互角に戦ったことは、女子バスケットボール部員に大きな自信を与えた。昭和二十八年一月の全日本総合大会(オールジャパン)にも県代表として参加した。高橋房子(昭28卒、旧姓高村、故人)、植松素方(昭29卒、旧姓幾田)、土屋くら子(同、旧姓持麾)の三人は昭和二十七年度の県高校十傑に選ばれ、土屋は県最優秀選手の栄誉を受けた。


練習は厳しいが部の雰囲気は明るかった。全国大会が開かれた新潟県で(昭和28年)
 近隣の中学にバスケ部が創設されたこともあって昭和二十八年春は入部希望が殺到し、十二人もの新入生が加入した。部では未経験者を歓迎し、上級生も気分を一新して基礎から練習した。顧問の高杉隆三(故人)は大学の後輩たちを助っ人に呼び、練習試合の相手や合宿中の指導を頼んだ。

県下一の実力を持ちながら、屋内設備は整っていなかった。武道場を兼ねた体育館は天井が低く、公式コートの三分の二ほどの広さだった。勝又歌子(昭30卒、旧姓伊倉)は「梁(はり)が邪魔で四十五度の角度からシュートが打てなかった。おかげで試合では予想外の角度でゴールを狙い、敵を戸惑わせた」と打ち明ける。

視察に来た県職員らが見かねて予算を組み、新体育館が完成するのが三十二年。それまでは農場裏にあった野外コートを使った。夏はよく蚊に刺され、日に焼けて真っ黒になった。冬は新人戦が行われるにも関わらず、雪で土がぬかるむため、思うように練習ができなかった。屋外で練習する分、「馬力がある」と評された。

  恵まれぬ環境で快進撃    

   二十八年も御高は快進撃を続ける。公式試合数二十五回のうち、勝数は二十一回。国体こそ逃したが、東海大会、全国高校選手権、全日本総合大会の三つの県予選で優勝して三冠を達成、全国に二度コマを進めた。

 昭和二十九年春、チームの核だった三年生が卒業した。主将岩田崇乃(昭29卒、旧姓勝又)は生徒会誌に、「今までの勝敗にこだわらずに、明るく、朗らかな雰囲気をいつまでも失わずに持ち続けていってほしい。ただそれだけ」と後輩へのメッセージを寄せた。二年連続で県最優秀選手に選ばれた土屋は東芝に進んだ。全日本実業団選手権大会優勝に貢献し、後輩の励みになった。

 二十九年はライバル校静岡精華に阻まれ、どの大会も二位に甘んじた。岩田からバトンタッチされた新主将稲葉たけ(昭30卒、旧姓稲葉)は「先輩がいたときは勝って当たり前だった。県大会三年連続優勝は逃したが、皆にプレッシャーはなかった」と振り返る。

 その後も東海大会までは進んだがあと一歩及ばず、全国大会出場を果たしていない。だが、先輩後輩の垣根を取り払った和気あいあいとした雰囲気とフェアプレー精神は、脈々と受け継がれている。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年


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