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富士山の登山道は静岡、山梨両県で五カ所ある。うち県内に四カ所。御殿場口は明治十六年に開かれた新道で、昭和七年の富士山測候所開設以来、所員の登山路、荷上げ路として知られる。御殿場口強力(ごうりき)は夏の登山客相手の強力と異なり、冬山もこなすのが誇りだった。 御殿場口最後の強力は大胡田謦吾(昭21卒)。十九歳で父を亡くし、六人の弟妹の生活を守るため昭和二十二年、富士山測候所御殿場事務所と強力の契約を結んだ。給料は一貫目(三・七五キロ)を運んで二百円。危険な仕事だが、農業の傍ら月に十二、三日働いて一万円ほどになった。
七合目の小屋まで馬方が馬で運んできた野菜や魚、肉などの生鮮食品を背負い、山頂まで一日三往復した。夏は保存の効く梅干しやみそ、米などの乾物と炭千俵を測候所の倉庫に積み込んだ。大胡田は身長一六三センチ、体重七五キロ。「一度に運ぶ荷の重さは八十キロ前後。体重より重い荷を背負って歩くと、冬でも汗ばんできた」という。 富士登山駅伝では昭和二十六年の御高OBチームの優勝に貢献した。「一週間ぐらい前から東京のチームが練習に来ていた。そろいのユニフォームで軽くて薄い足袋をはき、カモシカのよう」とうらやましく思った。当日は金剛杖を二本ついて山頂から一直線に下り、雪渓を滑って進んだ。「そりゃ、毎日山にいたからね」。背負子(しょいこ)に作業ズボン、地下足袋で真っ黒になって登る強力の意地があった。 昭和三十八年、山頂への荷上げに画期的な変化が起きた。気象レーダー設置が決まり、大量の資材を運び上げることになった。大胡田は馬方と相談し、頂上まで馬が登れるように道を作ったが、神社は「昔は女性も登れなかったのに動物を連れてくるとは何事だ」とおかんむり。「何とか勘弁してもらったが、馬では運びきれない。ヘリコプターに仕事を取られても困るし、ブルを上げるしかない」と大胡田らは悩んだ。 強力や馬方、ブルドーザーの大手メーカーらが協力し幅一・五メートルほどの道を作り、小型のブルドーザーを上げて、より大きな道を作った。同年九月二十八日昼すぎ、七トンと二トンのブルドーザーが山頂に到着。「ブルが富士山を制した」というニュースになって世界中に伝わった。 昭和四十年代、強力仲間たちは別の仕事に移っていった。一人残った大胡田はブルに積む荷の調達など測候所の荷上げの仕事を続け、冬山も単独行で登ったが、五十歳を目前にした昭和四十八年、強力家業から退いた。 現在は時々、望遠鏡で眺めるだけだ。「世界遺産にという動きが活発だが、ごみやトイレの問題もある。将来どうなっていくか見通せない」。長年歩み続けた日本一の山の行く末を心配する。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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