![]() | <52> |
昭和初期、御殿場市は四百メートルの日本記録保持者中島亥太郎や国際大会出場経験を持つ中距離の橋本信義(故人)ら全国でもトップレベルの選手を輩出するなど陸上競技が盛んだった。中島、橋本は昭和八年に御殿場町青年団を中心に結成された三星クラブに所属し、地域住民のあこがれの的だった。
田代五六(昭17卒)は昭和十七年夏、明治神宮競技場で開かれた秩父宮杯争奪全国農学校競技大会に出場。棒高跳びで三・二メートルの記録を出して優勝し、三段跳び二位、四百メートル入賞とフル回転で活躍した。 当時はスパイクの使用が禁止されていて、棒高跳びの棒も竹。田代は「ほとんど自己流で跳んだ。現在使われているグラスファイバー製の棒のように、よくしなうことがないため、力が要った」と振り返る。田代は社会人になっても競技を続け、二十二年の国体に四百メートルの県代表で出場した。三十九年の東京オリンピックでは陸上競技の審判を務めた。 終戦後、御殿場に米軍が進駐し、キャバレーが軒を連ねる歓楽街の色を濃くした。住民は風紀の乱れを心配するなど不安にかられた。そんなもやもやを、活動を再開した陸上競技部が吹き飛ばした。
体育教師二ノ宮祐一(故人)の呼び掛けで集まった部員は約二十人。物資不足で履くものがなく、雨の日も雪の日もはだしで走った。植松文明(昭22卒)は「冬は寒さで足の感覚がなくなり、涙を流して走る後輩を励ましながら練習した。部員の一人の家が麹(こうじ)屋を営んでいて、たまに出してもらう甘酒が楽しみだった」。試合の日は家族がユニホームを縫い、女学部が足袋を作ってくれた。 競技会も次々と復活し、二十二年一月、富士市をスタートして静岡市の県庁を目指す県駅伝大会が行われた。参加約三十校で植松、滝口登(昭22卒)、渡辺茂幸(同)、秋山繁雄(同、故人、旧姓小見山)、杉山邦雄(昭23卒)、勝又金光(同、故人)、村上和男(同、故人)らが出場した。御高は韮高、沼商、見付中(現磐南)などの強豪を押さえて優勝。翌年も勝って二連覇を達成した。 滝口は「試合後は静岡駅で万歳をして帰った。学校も喜んでくれて、卒業式後に走者を壇上にあげて褒めてくれた」と懐かしむ。 駅伝でアンカーを務め、二十一年の県中学陸上競技会の五千メートルでも優勝した植松は現市体育協会長。来月に迫った市町村対抗駅伝で「三位以内を狙いたい」と目を輝かす。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年 |
掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 静岡新聞へ |