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 部活動(グライダー)

涙の解体、部品隠す

 「引っ張れ」。広々とした草原が続く板妻飛行場(現東富士養鶏場)に、滑空部顧問原田友由(昭4卒、故人)の号令が飛んだ。約二十人の部員はグライダーに取り付けられた二本のゴム索を手に取り、「走れ」で勢いよく駆け出す。「放せ」で両翼を押さえていた生徒が手を離した。パチンコ式に打ち出されて発進した機体は、雄大な富士山を背にふわりと浮き上がった。

 文部省が中等学校におけるグライダー滑空練習を定めた昭和十三年夏、御高は県内トップをきって活動を開始する。顧問は原田、内藤泰(旧姓岡島、故人)、石王治富。戦時で滑空技術の向上が奨励されていたこともあり、高度二十メートル、飛行距離約二百メートル、滞空時間約二十秒の飛行が生徒たちを虜にした。

 練習は主に土日。朝から一日参加してもなかなか全員に順番が回らず、最上級生でも二度飛べればいい方だった。御高が所有するグライダーは初級機「B―265」一機のみ。伴野元由(昭16卒)は「機体の損傷を一番心配した。翼が破れると、自分たちで布を張って塗料を塗った」と振り返る。

 昭和十五年には、皇紀二千六百年を記念して東京の一級滑空士たちが富士山から飛行することになった。部員たちはグライダーを運搬し、太郎坊の室に泊まり込んで手伝った。悪天候のために一週間ほど延期されたが、さっそうと飛び立つ滑空士を、部員たちはせん望のまなざしで見送った。

 大空にかける思い今も  

 滑空部の資格取得は十七年ごろから。それまでは「県内に滑空部が少ないので競技会もなく、三商(現三島南高)や静商などと十国峠で合宿を行った」と勝又保(昭16卒)。瀬戸重夫(昭18卒)や船津昭(昭20卒)は部で選抜され、大須賀町で試験を受けて三級滑空士の免許を取得した。

 終戦直後、御殿場に駐屯する米軍から、グライダーに使われている金具を提出するよう命令が届いた。事実上の廃部命令だ。部員たちは当時所有していた四機を解体したものの、「先輩の代から乗ってきたグライダー。何とかして守りたい」と三機分だけを提出。残り一機は手分けして家に持って帰った。

 ごまかしはすぐに見つかった。「早く残りを提出するように」と学校を通じて命じられ、渋々提出した。杉山邦雄(昭23卒)は「これだけは譲れない」と尾翼の一部を隠し持ち、今も大事に保管している。

 二十年代後半、御殿場にグライダーの愛好会を作る話が持ち上がったが資金が足りず、立ち消えになった。「車で長い直線の坂を下っていくときにふと、昔を思い出し、このまま飛ばないかなと思う」と野木国員(昭16卒)。元部員たちの大空にかける思いは色あせることがない。

 (文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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