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簿記部の活躍が始まったのは昭和三十二年。前年に転任し簿記部顧問となった勝又義太郎(現沼津中央高校長)は、「能力は皆同じ。目標を持ち、毎日練習し続ければ必ず伸びる」の信念を持って指導に当たった。商業科全体のレベルアップを図ろうと、担当した一年生三クラスに厳しい授業と補習を行った。
御高正面玄関には簿記部がもたらした数々のトロフィーや盾が並ぶ。上段中央に置かれたひときわ大きいカップが、明治大学会計学研究会主催「関東甲信越東海地区簿記コンクール」の優勝カップ。簿記部が初めて県外に遠征して全国を相手に戦い、カップを手にするまで四年かかった。 初出場した昭和三十四年の様子を、部長だった勝又信夫(昭35卒)は「県大会しか経験のない自分たちに好成績は望めないと思い、皆リラックスしていた。問題には全力で取り組み、悔いはなかった」と振り返る。入賞校は十位から順に発表された。部員たちが「やはり入賞は無理か」とあきらめかけたとき、「三位御殿場商業高校」とアナウンスが流れた。
出場約八十校の大半が商業高校で、御高がまだ全くの無名だったため、校名を読み間違えたのだ。御高選手席は歓声を上げ、手を握り合い、肩をたたき合って喜んだ。全国に通じることを、自分たちの力で証明したのだ。 翌三十五年は二位。三十六年も杉山博(昭37卒)が個人で優勝したものの団体は二位。両年とも優勝は磐田商(現磐田西)だった。簿記部の部室には、墨で大書した「打倒磐田商」が張られた。 待ちに待った「一位静岡県立御殿場高校」のアナウンスが流れたのは三十七年。念願の優勝カップを受け取った部長の勝又秀和(昭38卒)は「部員の喜びも大きかったが、応援に来てくれた先輩たちが何より喜んでくれた」と感激をよみがえらせる。 同コンクールへは十回出場し、優勝六回、二位二回、三位二回と抜群の成績を残した。優勝は六回で、カップは長い間御高にとどまり、小川良孝(昭39卒)と佐藤文子(昭45卒、旧姓土屋)は個人優勝も飾った。「簿記の御高」の名声は高まり、校名を読み間違えられることもなくなった。 昭和四十年代に入ると全国各地で大学紛争が活発化。明大も影響を受け、四十四年からコンクールは中止された。行き場をなくしたカップは、前年に優勝した御高にとどまり、燦然(さんぜん)と輝いている。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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