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昭和五十八年、新聞各紙に御高簿記部が大きく取り上げられた。「団体で初の完全制覇 県・全国など七大会」「高校生大会総なめ 名実ともに日本一に」「破竹の勢い御高簿記」などの見出しが躍る。この年簿記部は、出場した大会すべてに団体優勝するという快挙を成し遂げ、全国に名をとどろかせた。
総なめにした大会は全国高校簿記大会東海地区大会、同全国大会、大原簿記学校高校簿記大会、富士短大高校簿記大会、県商業実務大会、東京経済大関東甲信越東海地区競技会、東海地区商業実務大会の七つ。大会ごとに問題の程度や傾向に特徴があった。
小島朋子(昭60卒)は「問題数が多くてスピードが勝負という大会があり、答えを早く書く練習をしたのが懐かしい」。菅沼浩美(昭59卒、旧姓三改木)は「先輩たちも立派な成績を収めているし、特に快挙とは思わなかった。休みはなかったが仲間がいたし、練習が厳しいとは思わなかった」と笑顔を見せる。 勝又と金親照司(昭26卒)から簿記部を引き継いだ顧問の深沢利巳(故人)はインタビューに対し、常勝の秘けつを、(1)努力(2)気力(3)コンディション調整(4)先輩たちの残した伝統―と答えている。 深沢は日ごろの練習では、幾つかのパターン化した簡単な問題を何回も繰り返し解かせた。基礎を十分に学んだ部員は、複雑な問題が出てもどのパターンの組み合わせかが分かるようになった。大会前は、生徒に自信がなくなり落ち込みがちになるため、ひたすら励まして自信を持たせた。妻の節子(昭38卒、旧姓芹沢)は「生徒のレベルに応じた問題を用意するため、いつものりとはさみを持ち歩いて問題用紙を切ったり張ったりしていた」と熱中教師ぶりを思い返す。 簿記部名物「教授制」も学力レベルの保持に一役買った。上級生のうち何人かが「教授さん」になって下級生に教えた。三十五年ごろ、部員が増えて顧問の指導が行き渡りにくくなったために考え出され、伝統となった。教える側の上級生も熱心に復習するようになり、部のまとまりも生まれるという一石二鳥の制度だった。 活躍を評価された簿記部は翌五十九年、県教育委員会から表彰を受けた。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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