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「今度来た先生は前任校で吹奏楽部顧問。御高で吹奏楽部を作りたがっているらしい」―。昭和三十五年、小林力(昭37卒)は、転任してきた英語教師松沢昇のうわさを聞き付けた。中学生のときブラスバンド部に入っていた小林は創部の夢を膨らませた。約二十人を集め、松沢に「やりましょう」と声を掛けた。
楽器ごとの専門的な指導を引き受けてくれたのが自衛隊富士学校音楽隊。夏休みに合宿をして、隊員たちから各パートの技術や合同合奏などを教わった。宿泊代を節約するため空き地にテントを張って寝た。松沢は「親が富士学校に勤めている生徒を通じて頼んだ。基礎をみっちり教えてもらったおかげで急速に進歩した」と、組織の枠を越えた交流に感謝する。
活動の幅は次第に広がっていった。三十六年から体育祭で演奏した。レコードでの入場行進が「味気ない」と不評だったので、大いに歓迎された。三十七年には依頼を受けて御殿場ボーイスカウト結成記念パレードへ参加した。野球部全校応援にも加わり、静岡市高、静商、沼津東などの名演奏に聴き入った。吹奏楽コンクールに初出場したのも同年。会場には卒業生も駆け付けた。 五十一年には部員は六十人を数え、学校一の大所帯になった。楽器の種類と数も年々増えていった。 五十九年、小編成の部で県代表として東海大会に初出場。六十一年も県大会で最優秀賞を受賞して東海大会に出場した。加藤純子(昭62卒、旧姓南雲)は「躍進の秘けつは練習量の多さ」と説明する。「朝練もあり、夜はほかの部よりも帰りが遅かった。顧問の池田崇明先生が熱心に指導してくれた」 五十四年五月、御殿場市に本格的な楽団を作ろうと、御高OB・OGを中心に御殿場吹奏楽団が結成された。今年で創立二十周年を迎えた楽団には近隣市町の社会人や学生など四十人が所属。年に一度の定期演奏会や市のイベント参加など積極的に活動している。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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