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 部活動(弁論)

雄弁会スタイルの発声練習

 「親愛なる御殿場市民諸君」。雑小沢のほとりや御高講堂の壇上から、男女の混声が響く。近くで練習している運動部の生徒も、思わず続きを口ずさむ。「昔ローマの英雄シーザーが、初めて小アジアに進出し・・・」。昭和二十四年ごろに創部され、五十年ごろまで活動した弁論部の伝統的な発声練習だ。もともとは「金沢市民」と呼び掛ける演説の一節で、「御殿場市民」に言い換えたりした。


弁論部は全国のひのき舞台で活躍した。中部五県大会で優勝した林さん=前列中央(昭和33年。「80年のあゆみ」より)
 一風変わった発声練習を始めた山崎俊治(昭28卒)は、「雄弁で知られ早大教授から政治家になった永井柳太郎の有名な演説」と説明する。大正六年、総選挙に落選した永井は出身地の金沢市内で感謝演説会を開いた。自らをシーザーになぞらえて「来たり、見たり、敗れたり」と叫んだ演説は態度・声量・内容・修辞のどれをとってもスケールが大きく、雄弁家永井の名声を高めた。

 山崎は昭和二十七年、専修大主催全国高校弁論大会に県代表で参加し、「生きるもの」の演題で五位に入賞した。その際、同大雄弁会が永井の演説で発声練習を行っていることを知った。部長だった山崎は早速部員たちと話し合い、練習に取り入れた。

  主張する気風はぐくむ  

 発声練習の成果が出たのか、部員たちは次々と全国規模のひのき舞台で活躍した。愛知大主催中部五県大会では三十二年に鈴木文一(昭33卒)が三位、翌年に林宗一(昭34卒)が「科学的農業と私」と題して優勝、三十五年に勝又晴浩(昭36卒)が三位に入賞した。三十六年の専修大東海地区大会では渡辺三重(昭38卒、旧姓勝又)が二位。土屋積子(昭46卒、旧姓岩田)は四十三年の加納杯争奪中央日本地区大会で三位に入った。

 話すことが好きな部員たちはしばしば、「男女共学」や「クラス編成」など身近な問題から社会、政治問題まで討論した。生徒会役員を兼任した生徒も多い。演説の練習では互いにやじを飛ばしたがまとまりがあり、卒業生も部室に顔を出して論議に加わるなど、縦のつながりも強かった。年に一度、卒業生と部員の弁論を集めた機関誌「なかま」を発行した。杉山博(昭37卒)は「先輩たちがよくパンを差し入れてくれた。一緒にハイキングをしたり、山梨にある顧問の上田武先生の実家に遊びに行ったりもした」と振り返る。

 校内でも毎年、弁論大会を開き、活発化させた。自分の意見を主張する気風を御高の伝統にしようと、四十一年からは生徒会主催の校長杯争奪弁論大会に切り替えた。大会は七回まで続いた。

(文中敬称略)

 【注】カッコ内は卒業年。


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