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普通教科のほかに、裁縫・料理・華道など一通りの女子教育が行われていた。裁縫は単衣、袷(あわせ)もの、袴(はかま)、普段着まで幅広い内容だった。夏休みには養蚕実習があり、蚕を飼育したり、学校の裏の畑で桑の葉を摘んだ。
秋の陸上運動会には、ダンスや徒歩競走と共になぎなた操法の披露もあった。また大寒の最中に、寒稽古が一週間あった。最近のような暖冬ではなく、氷点下何度という寒さの中、普段通り家庭内の自分の役割としているふき掃除など済ませて、体を温める暇もなく、早朝学校へ急いだ。学校生活の中で最も苦行だった。
昭和十二年卒業の方々のバレーボールのチームは試合が強くて、県大会にまで進み優勝した。中島初江さん(故人)、堀内よね子さん(旧姓渥美)、須田操子さん(旧姓太田)など優れた攻守力を持った方々がそろった優秀なチームだった。加えて、三木先生のご指導が功を奏したものと思う。先生は体育のほか音楽も教えていて、優れた指導力を持った方だった。 この当時は、北支事変の最中だった。 私たち生徒は、出征兵士の方の家庭へ農作業の奉仕に行き、田植えなどの手伝いをした。また女子生徒も運動場の霜を踏み締めて、査閲や分列行進など軍事教練にも参加した。このように軍事色濃いなか、昭和十五年まで学校恒例の修学旅行もあった。 伊勢神宮参拝、京都では清水寺や、嵐山での屋形船での川下りを楽しみ、奈良は猿沢池の畔の宿に泊まった記憶がある。また、吉野まで足を延ばし、吉野神宮や後醍醐天皇御陵にも参拝、さまざまな歴史の跡を訪ねることができた。 そのころは、生野写真館主が旅行に同行してくださって、折々の記念写真を撮っていただき、よい思い出になっている。この思い出の旅もすべて秋口常太郎校長(故人)のご先導で無事に済ますことができたが、ますます戦争が激しくなり、修学旅行もこのころが最後で取りやめになってしまった。
(天野ユキヱ=昭15卒、旧姓勝又)
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