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 私の思い出(3)(勤労動員)

母の帯芯で作ったリュック

 たった一つ、御実時代の思い出いっぱいの宝物がある。教科書でもノートでも写真とも違うそれは古びて汚れたリュックサックだ。簡単な袋に背負いひも、ボタン留めの覆布、どこもよれよれに疲れ切っている。

 「中学生勤労動員令」が出たのは昭和十九年の春。数日後、私は御実に入学した。太平洋各地の最前線は次々に米軍の手中に落ち戦局悪化の日々、私たちは軍事教練と農業実習の連日で教科書を開くことはなかった。


大箕さんが大事に保管しているリュックと余りの帯芯
 夏も終わるころから本土空爆のために物量にものを言わせてのB29襲来が始まった。折も折、東海地方を大地震が襲った。戦時下という理由で情報一切は秘められたが県内も清水、浜松、磐田などは大被害を受けた。昭和二十年正月、私たちはこの救援のために袋井に動員されることになる。

 リュックはこのとき作られた。着替えその他身の回りの品を入れるためにどうしても必要だが、リュックのないわが家は思案の末、母の帯芯(しん)を利用して作ることを思い立つ。帯の端に少しはさみを入れ、私が持つ帯芯を「エイッ」と母が引き抜くのだがどれも良いというわけではない。弱くて使い物にならないものもある。そんなとき「これはダメ」「使い物にならない」など母は大活躍をしていた。四本の帯の中から丈夫そうな二本で近所の洋服屋に縫ってもらった。

 空襲の惨事伝える染み  

 誇らしげにそれを背負って御殿場駅軍隊ホームから袋井へ旅立った。袋井・土橋の鈴木又一宅で約一カ月、余震におびえながらの農作業中、リュックは枕の代わりにもなった。三月は広瀬村の用水作業動員に一カ月。帰るとき、一束のネギと五円分の乾燥藷(いも)を母への土産にと入れてきた。

 最後の動員は同年五月の芳川村の用水工事だった。ここでは空襲以外の思い出はない。浜松地方が受けた空襲は死者三千二百人余、県内各地に比べ圧倒的に多かった。最たるものは五月十九日正午から一時間にわたる大空襲で、鼠野というところで爆撃を受けた。死者三百三十六人、負傷者三百と記録される大惨事だった。空襲が終わって芳川べりを宿舎に帰る道すがらはまるで地獄絵そのものだった。

 宿舎の屋根は飛び、戸や障子も爆撃でなくなっていた。リュックもない。途方に暮れていたら友達が「田んぼの中だ、行ってみろ」。リュックはまだ田おこし前のレンゲ畑に転がっていた。拾い上げると少し赤い染みが付いていた。レンゲの花汁かと思ったら友人が「リュックのそばには胸に破片で大きな傷を受けて亡くなった坊さんがいた」と教えてくれた。

 ほんのり赤いレンゲ田を見るといまだにそのときのことが思い出され、はたまたリュックへの思いもことさらに深くなる。

 

(大箕正之=昭22卒)

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