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首長(上)

小山町長と山中湖村長


長田央小山町長
 「最近は東大出の首長も多いが、私には御高で学んだ誇りがある。経歴がなんだ、自分は木下藤吉郎だ、と思っています」と自負するのは県議四期を経て平成七年、小山町長に当選した長田央(昭21卒)。学徒動員がほとんどだったが、友人や恩師らとの思い出は尽きない。

 得意だった科目は数学。県議時代の代表質問は綿密な調査と具体的な数値を身上とした。町長として最初に取り組んだ医療問題でも町の医療費・開業医数・平均寿命・健康診断実施率などの数字を挙げて町内医療が抱える問題を示し、説得力を持って解決を心掛けた。

 子供心に「沼津の次は小山市ができるだろう」と言われた町の最盛期を覚えている。富士紡で働く工員が全国から七千人集まり、町の財政は潤った。映画館は三軒。祭りもにぎやかで、御殿場から見物に来た。

 母校を誇りに積極行政

 今の町にかつての華やかさはない。富士山、緑、水、東京近郊などの魅力を生かした町づくりを考え、クラインガルデン(市民農園)構想や企業誘致、交通問題などと取り組む。県外自治体との独自の交流も進め、「小山町は静岡県の片隅だが、見方によっては中心になり得る。県に頼るばかりではダメ」と新たな時代への対応を図る。


高村朝次山中湖村村長
 山中湖村村長高村朝次(昭23卒)は三期を目指す年末の村長選が間近。「夏だけの日帰り観光地」からの脱却を図った。冬でも花が咲く“花の都公園”など緑豊かな公園を村内各地区に広げ、徳富蘇峰館や三島由紀夫文学館など文化施設を整えた。

 高村は終戦で学校制度が変わり、多くの友人が新制御高に進む中、父が病に倒れたために進学を断念した。学歴は「併設中卒」の扱いになり、皆より一回り小さい卒業証書を受け取った。高村家は代々村長を務める家柄。「事業一筋で行こう」と、卒業後は家業の製材業に専念。昭和三十八年に建設会社を興し、現在はタカムラ生コン、タカムラ建設など建設関連、開発事業からなるタカムラグループを社主としてまとめる。

 昭和五十四年、友人、知人に勧められて県議に打って出る。「父親の『自分で決めろ』の一言で、それまでの信念が曲がった」。平成八年、沖縄駐留米軍の実弾射撃訓練場の本土移転問題で、北海道以外の候補地の地元自治体で初めて受け入れを表明した。「敗戦の思いを知る者としては国防にかける思いは強い。沖縄と痛みを分かち合わなければ」と危機感が薄れた日本を憂う。

 

(文中敬称略)

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