![]() | <74> |
月刊誌「北駿郷土研究」が平成七年に完全復刻し、出版された。同誌は昭和八年、有志二十六人で結成した「北駿郷土研究会」の機関誌で、後に「富士山」と改称。富士山測候所の生みの親で日本最初の冬季高層気象観測を行った野中至の題字と洋画家大森海門の表紙絵で知られ、昭和十一年十月まで三年間、三十六号まで刊行した。 研究会の中心メンバーは北駿地方の町村長や学校長らで御高五代校長秋口常太郎(故人)や、元教員で郷土史年表作成に心血を注いだ勝間田儀作(明36卒、故人)、伴野京治(大2卒、故人)らが名を連ねた。伴野は北駿地方の史料を丹念に探し求め、複写紙や謄写版を使って翻刻。地域や所蔵者別に二十冊近い手書きの資料集を残している。「北駿郷土研究」には古墳の分類から特産品竹行李(こうり)の由来、御殿場出身の西南戦争従軍者など幅広い内容で寄稿した。
研究発表の場だけではなく、地域情報紙の性格も持っていた。人事や事故、小中学校の話題などが盛り込まれ、御高の名前もあちこちに見られる。
発行人田原林太郎による編集後記を拾ってみると、「県東部中等学校射撃大会が行われ御実は二等。女学部生徒が優秀な成績を上げて男子生徒を驚かせた」(10年12月号)「八年間の苦心の結果、林檎栽培に成功。青々とみずみずしい坊主頭を葉裏にのぞかせているのを眺めて職員も生徒も嬉しそうだ」(11年7月号)などとある。昭和初期の御高生の様子が生き生きと描き出されている。 研究会は機関誌発行以外の活動として毎年、御高展覧会(文化祭)で研究発表を行った。元御殿場市教育長鈴木賢治(昭17卒)は「『聖徳太子も富士登山をした』などの発表に感心した」と懐かしみ、「『北駿郷土研究』に導かれ、編者の思いに誘発されて郷土史研究者が陸続と輩出するよう望んでやまない」と復刻版に巻頭祝辞を送っている。 研究会は会員三百余名を数えた。だが、会費回収が滞り、昭和十一年、「北駿郷土研究」は廃刊に追い込まれた。会は戦後まで続き、郷土研究の灯をともし続けた。 (文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
|
掛中・掛西百年史 榛原高100年史 富士宮農高百年 静岡新聞へ |