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経済(地元)

生産者と小売店を橋渡し

 勝又白俊(昭28卒)は平成六年から矢崎グループの関連会社「エーライフ矢崎」社長を務め、昨年九月、会長を退いた。矢崎グループの社員には「社長」よりも「組合長」で知られる。

 勝又は七年間の小学校教員生活を経て矢崎に入社した。全矢崎労働組合が六支部約三千八百人で結成された昭和三十八年、御殿場支部長としてリーダーシップを発揮。四十年に組合書記長、四十二年には組合長(中央執行委員長)に推され、九支部六千人の組合員を二十五年にわたってまとめ上げた。勝又は「どの工場へ行っても『やあ』『おい』で通じる仲間ができた」と懐かしむ。

 矢崎生活協同組合から生まれ変わったばかりの「エーライフ矢崎」を任される時、勝又は「畑違いでは」と戸惑った。だが、矢崎の社長から「労組で人の心をつかんできたあなたに、客の心をつかむ『商売』ができないはずはない」と説得され、「組合員に売ってあげる」生協から「お客さまに買ってもらう」小売業への転換に取り組んだ。

 勝又は御高時代、農業クラブ部長。同級生には地元経済を担う仲間が多い。

 生徒会長だった山崎勝正(昭28卒)は前御殿場青果社長。大型店の進出や不景気など厳しい時代のなか、加盟店への消費者サービスデー「青果の日」導入、加盟店のみが扱う商品の開発などを積極的に進めた。「北駿の台所を担う責任」を胸に生産者と小売店の橋渡し役を務めてきたが、昨年六月に退任。現在は市御殿場財産区議会議長を務め、「四十年以上前に御高で学んだ英文タイプが役立つ」とパソコンに向かう。

 商業で活躍する28年組

 各種看板を取り扱う「あど・あーと・きくた」社長菊田量三(昭28卒)は御高時代、応援団長と演劇部長を兼ねた。青年時代は東京で劇団生活を送った。得意な絵を生かそうと帰省して看板店で修業し、五十八年に独立。菊田の作る看板は地元から神奈川まで多くの場所で使われている。パソコンで看板を印刷できるようになった今は、趣味のパステル画に打ち込む。

 商業部長だった守屋正之(昭28卒)は昭和四十二年から二年間、東京の専門学校でデザインを学び、祖父が大正八年に始めた建具屋を、インテリアと家具を二本柱にした守屋家具店に発展させた。県室内装飾協同組合の副理事長として平成十年まで、「時代に取り残されないよう資格技能をたたき込む」をモットーに後進の指導に当たった。

 米殻・肥料・農薬を手掛ける「ナツガ」の夏賀定治、洋品・薬など五店を展開する「夢シティ」の砂山忠治、東富士養鶏場の石田九市も昭和二十八年卒の同級生。先輩に山梨ナショナル家電の渡辺五郎(昭4卒)、芝誠の勝亦誠一(昭20卒、故人)、協和ソニックの岩田鋒治(昭26卒)。後輩にサンワフーズの横山竹利(昭35卒)、高村工業の高村宣明(同)らがいる。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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