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近代日本は「男女七歳にして席を同じうせず」という儒教主義により男女別学が行われ、中等学校以上の本格的な共学は第二次大戦後の教育改革を待たなければならなかった。だが、御高は教室で机を並べることこそなかったが、大正の初めから男女が共に学んでいた。口をきくことさえできず、電車も別々の車両に振り分けられる時代に、同じ敷地内で学ぶことは画期的なことだった。
女学部の設置に伴い、御殿場農学校から御殿場実業学校と改称。高等小学校跡に本館と女学部校舎を新築した。二階建ての男子部校舎と平屋建ての女子部校舎は、敷地は同じでも職員室を挟んで分かれていて、男子は正門、女子は裏門を出入り口にした。 女子部は大正八年に御殿場実科女学校として独立し、御殿場農学校に校名を戻したが、県立移管に先立って三年後に再び合併。あらためて御殿場実業学校と改称した。昭和六年の創立三十周年記念式式辞で秋口常太郎校長は「中学校、高等女学校程度以上で男女を同一校に入学させることの文部省の認可は、全国中本校をもって嚆矢(こうし)とし、本校の成績に鑑(かんが)みて次第にその数を増している」と述べ、先駆者の役割を強調している。 女子の服装は着物に袴、げた履き。かばんはなく、ふろしきに教科書を包んでいた。髪の形は厳しく決められていて、「目がつり上がるほどきちんとたばねた。少しでも緩んでいると先生に叱られた」と菅野万三(大13卒、旧姓小宮山)は九十周年記念文集に思い出を寄せている。 遠足、修学旅行、運動会など学校行事は男女別々。土屋隆一(大15卒)は「雨降りには駅まで馬車鉄道で女子部の生徒と一緒で楽しかった」と九十周年記念文集で明かす。多感な青春のまっただ中にいる生徒にとって同じ敷地内で学ぶことは心がときめいた。 女子卒業生は実科女学校時代以来、同窓会組織「常磐会」を組織。昭和二十二年に男子部の御高同窓会と合流するまで、総会を開いたり、通信を発行して交流を深めた。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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