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戦前、養蚕は北駿の主要農産物だった。「お蚕の先生」で通っていたのが、大正九年に養蚕専門教師として着任した宮本昇(故人)だ。男学部生徒は二年生になると十人単位の班を作って交代で養蚕室の片隅の宿泊室に泊まり込み、春蚕、夏秋蚕の飼育実習をした。岩瀬実(昭16卒)は「生徒は六日に一度の宿泊だったが、先生は毎晩家へ帰ることなく頑張っていたし、別の蚕室で女学部生徒も指導した」と宮本の熱心さを思い出す。 宮本の校内での愛称は「そば先生」。蚕に与える桑葉を細かく刻む実演をしながら「そばを包丁でさくさくと均等に切るように」と繰り返すために付いた。宮本が昭和二十七年に退職するまで代々の生徒に受け継がれた。 教科書だけでなく実験を通して化学の面白さを伝えようと情熱を燃やしたのは、昭和八年から四十年間勤めた理科教師原田友由(昭4卒、故人)。物資不足の戦中も何とか器具を確保して教え、生徒は目を輝かせて実験に取り組んだ。 原田のニックネームは「ポコ」。液体を沸騰させたり、水上置換法で気体を集めるときの「ポコ、ポコ」という音からだ。実験中に生徒から「ポコ、ポコ」の声と忍び笑いが起こるたび、原田は「笑うじゃない。ポコというのは今に始まったことではない」とやり返した。
「学さん」こと松井学平(大9卒、故人)も理科教師。昭和十九年から四十一年まで、授業でヤギを解剖したり、顧問を務めた生物部の部員を連れて伊豆へ自然観察に行くなど型破りな教育を行った。滝本典子(昭40卒、旧姓黒羽根)は「優しくて飄々(ひょうひょう)としていた。今の先生にはいないタイプ」と懐かしむ。息子で御殿場医師会長の外科医松井秀夫(昭28卒)は「女子には優しかったようだが、家庭では頑固者」と明かす。 逆立った半白の髪に黒いつるを糸で補修した丸眼鏡、ぼたんの足りないチョッキ姿で、二十五年から六年間、迫力のある授業を展開したのは英語教師田中英雄(故人)。出来が悪いと得意の「毒舌」を浴びせた。生徒たちはいつ攻撃されるかとヒヤヒヤしながらも、教育熱心で人間味のある田中を慕った。石井知津子(昭28卒、旧姓飯塚)は「初めての授業で『INNOCENCE』を滑らかに発音されたが、まさに先生の人柄にぴったりの言葉」としのぶ。元御殿場南中校長山口敏明(同)は田中の迫力と魅力にひかれ、理想の教師像を重ねながら教職を選んだ。 商業科教師子上一郎(故人)は、ぼたもちのようにふっくらした顔から「ボタさん」。昭和十三年から二十三年間勤め、生徒の就職指導に尽力した。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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