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東富士演習場

農民の長い闘い郷土誌に

 昭和四十四年八月一日、台風接近で風雨が激しさを増すなか、印野地区着弾地農民同志会の会員約二十人は東富士演習場地内に張ったテントを必死で押さえつけていた。自衛隊協力体制の強化を打ち出す市長一派が一本釣りで委任状を集め、権利者の分断を図ったことに抗議し、実力行使に出たのだ。

 台風が去ると会員たちは土地を耕し、生育期間が短いという理由からソバをまいた。周辺での演習は停止。行政側は何度もテントまで足を運んだが、会員たちの意志は固かった。勝間田徳一(昭16卒)は「支援を申し出る政治・思想団体もあったが『純粋な農民運動だから』と断り、地区の者が交代でテントに詰めた」と振り返る。話し合いに決着が付いたのは十月下旬。ソバを収穫し、地区をあげて祝った。

 分断に抗議しソバ栽培

 東富士演習場の歴史は旧陸軍が強制買収を進めた明治時代にさかのぼる。昭和二十年の敗戦でいったん所有者に返還されたが翌年に米軍が接収。区域内住民の立ち退きは何とか免れたが、場内での農作業は禁止された。耕地を奪われた農民の生活は困窮した。塚本要(明36卒、故人)、横山茂理江(大2卒、故人)ら各地区代表者や、演習場内国有地耕作者約千四百戸で組織する「富士演習場対策協議会」の杉山高松(大3卒、故人)は、立ち入り許可や離作補償を求めて陳情を重ねた。

 初代御殿場市長勝又春一(明40卒、故人)、元社会党委員長勝間田清一(大14卒、故人)、「東富士演習場地域農民再建連盟」顧問石田請市(昭12卒)は「演習場の三イチ」と称される。

 勝又は三十二年に結成された再建連盟の初代委員長に就き、運動の先頭に立った。勝間田清一は、旧陸軍による演習場買収で強制移転させられた旧印野村北畑地区出身。演習場使用に伴う損害を「敗戦がもたらしたもので、その責は日本政府にあり、地元民だけが負うべきでない」と国会で訴えるなど、常に農民の立場から中央に働き掛けた。印野村助役、印野支所長などを歴任した石田は、周辺住民を代表して交渉に当たった。

 米陸軍撤退、自衛隊立入禁止訴訟、使用協定成立などを経て実力行使の時代は終わり、現在は五年に一度、演習場の安全対策や地元民の立ち入り条件などを定めた使用協定が「紳士的に」締結される。石田は長い闘いを風化させまいと、郷土誌の執筆に励んでいる。東富士開発農協組合長山崎俊治(昭28卒)、印野支所長渡辺淳(昭33卒)、玉穂支所長土屋寿一(昭37卒)らは先輩たちの意志を継ぎ、演習場周辺の権利維持と民生安定事業を行う。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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