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多彩な人物

海から空へ鮮やかに転身


思い出深い丹沢湖畔に立つ佐藤亨二さん=神奈川県山北町
 ボートや釣りを楽しむ観光客でにぎわう神奈川県山北町の丹沢湖は、昭和五十三年の三保ダム建設より出現した。青い湖面の下にはかつて、二百二十戸の民家があり、田畑、山林、道路などが広がっていた。湖畔に居を構える佐藤享二(昭16卒)は、「眺めるたびに思い出がよみがえる」と語る。

 三保ダム建設決定は昭和四十三年。農林省に勤務し、労組にも携わっていた佐藤は、三保地区ダム対策協議会と水没者地権者協議会の事務局長に推された。「片手間というわけにはいかない」と考えた佐藤は四十五年、悩んだ末に退職し、ダム問題に専従した。

 ダム問題で先駆的役割

 補償要綱の草案作りや現地調査に忙殺されながら、佐藤が最も苦労したのは地域の団結を守ることだった。地区ごとの選挙で信任を得た人が交渉委員になったが、金が絡めば時に感情的になる。佐藤は「険悪な雰囲気が見え始めたときは協議を休憩した。冷却期間をおくためには散会もやむを得なかった」と明かす。

 五年後の四十八年十二月、神奈川県知事を迎えて協定書調印式が行われ、翌年から工事が始まり、各地区で離村式や村落解散式が開かれた。佐藤の地区も三戸を残して四十八戸が水没したが、三年に一度の交流会を今に至るまで続けている。

 佐藤は自分たちの経験を生かそうと奥野ダム(伊東市)や椿山ダム(和歌山県)などに講師として出向いた。現在は「全国ダム問題調査会」を主宰する。

 元日本航空(JAL)機長加藤成良(昭26卒)は商船大学の航海科を卒業した。在学中に病気で一年間休学した加藤は「商船会社には体が弱いと思われ、雇ってもらえないだろう」と考え、JALの航空士に応募。海から空へ転向した。航空士は飛行機に乗り込んで位置や針路を測定する。船と航空機の違いはあっても、大学で学んだ知識が役立った。

 初めて操縦かんを握ったのは三十三年ごろ。航空士として務めながら、社内の養成訓練を受けた。パイロットになってからも苦労は絶えない。飛行機の機種が代わるたび、約四カ月かけて研修を受けた。離陸直前に「爆弾を仕掛けた」と電話がかかってきたこともある。乗客を全員降ろして係が点検し、いたずらと分かった。機内に残っていた加藤は「本当は避難したかった」と笑って見せる。

 平成六年のラストフライトまで、乗務時間は二万三百四時間を数えた。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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