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 吉田村立堰南学校

茅葺き本堂で中等教育

 榛原郡吉田町片岡。牧之原台地の南端、能満寺山のふもとにある林泉寺(りんせんじ)。樹齢三十三年の藤棚近くに、昨秋、吉田村立中学堰南(えんなん)学校の跡地であることを示す記念碑が建立された。明治三十三年(一九〇〇年)に開校した同校は榛原高校の前身。同寺は一世紀にわたる郡内の中等教育の発祥地でもある。

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堰南学校の跡地を示す記念碑と松浦住職。同校誕生までの経緯、期待感も刻まれている=榛原郡吉田町の林泉寺
▼設立に奔走した浅井

 榛原高校百周年記念事業委員会が建てた碑で、学校設立に至る経緯などに触れた建碑趣意も添えられている。小学校教師も務めた同寺の松浦宣昭住職(榛高・昭38卒)は「教育の礎となった寺の住職であることは誇り」とにこやかだ。開校記念日前日の七月十五日、除幕式が行われるという。

 志太・榛原では初、県内で五番目の中学校の同校に入学したのは三十数人の少年。新学期を三カ月ほど食い込んでの開学だったことから、夏休み中も補習授業を行ったとの記録が残されている。教室となった本堂は茅葺(かやぶ)きが瓦(かわら)に、障子戸がガラスのサッシに換わったが、太い梁(はり)や柱など造りのほとんどが昔と同じ。木々の香りをのせたさわやかな風、鳥のさえずりに包まれながら、勉学に没頭した生徒たちの姿をほうふつとさせる。

 大堰川とも表した大井川の南側に位置し、堰南と名付けられた同校設立の立役者は浅井熊太郎(一八七二―一九四四年)。吉田村の名家に生まれた浅井は隣町の川崎町(現榛原町)の私塾、東遠義塾に学び、東京専門学校(現早稲田大)に進学した。文学科を卒業した浅井は青少年教育を生涯の目標に据え、明治二十八年、浜松中学校(現浜松北高)の教壇に立った。しかし、三年後、突然、辞表を提出した。表向きの理由は個人的な事情だったが、その裏には壮大な計画が秘められていた。

 「創立八十周年記念榛原高校校誌」に掲載された回顧が浅井の心境を端的に表している。「西遠地方の進取的な情勢、浜松中学生徒のはつらつさ、積極的に生徒の力を広げる学校に刺激された」と打ち明けた上、「それとはまったく異なる郷里に、そうした気風を起こし、青年に対しては『登竜の門』を開きたい」とふるさとの変革を切望している。

▼地域動かした熱意

 郷土での中学校の設立を決意した浅井は帰郷後、直ちに活動を始めた。二十六歳の若さだった。浅井は寝食を忘れて有力者を訪ね、中学校の必要性を説明した。だが、理解はなかなか得られなかった。「百姓は読み書きそろばんでたくさん」「そんなに学問をして何に使う」(「郷土の先駆者」)との批判も目立った。

 だが、浅井の熱意が地域を動かした。人材育成の必要性を痛感し、当初から賛意を示していた吉田村長八木本之助(一八五三―一九一五年)に加え、賛同者が広がり、一年後、堰南学校の開校にこぎ着けた。浅井は後日、その苦労を追想している。「当時の榛原郡は中学校入学率も県下各郡でビリから三番目の情けない状態。教育的に極めて消極的で、中等教育機関を設けることはことさら至難であった」(「浅井熊太郎先生」)

【注】カッコ内の「卒」は卒業年。


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