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志太・榛原で初の中学校、堰南(えんなん)学校を創立した浅井熊太郎(一八七二―一九四四年)の教育への情熱はそれだけにとどまらなかった。次は中学校に進学できない青年、女性たちの教育をどうするかだった。息つく暇もなく、働き続ける浅井を突き動かしていたのは故郷の若者の将来に対する危機感だった。
自我が確立されずに軽佻浮薄(けいちょうふはく)、学問を嫌って歌や踊りにうつつをぬかし、飲酒を好むという当時の若者の間にあった風潮が明確に表され、浅井は「日本の未来を背負う青年の頭脳が散漫、空疎になる」と憂慮している。 そうした弊害を打破するため、浅井は明治二十六年、郷里の吉田村に片岡青年会を創設し、集まった若者たちに、「節制がなくわがままな心が身を滅ぼす。思慮を深くし、心を磨き、忍耐と克己を身に着けよ」と説き、勤勉と読書を訴えた。会員らはその教えを着実に守り、生活態度を一変させた。村内の雰囲気は大幅に変わり、同会は文部大臣などから表彰を受け、各地からの視察も相次いだという。 社会教育と学校教育の両立を痛感した浅井は明治三十三年に県連合青年会を、三十八年には社会教育同志会を結成するなど若者たちの育成に力を注ぎ、さらに勤勉と奉仕の精神を伝えるため、報徳社を設立し、活動範囲を拡大していった。
浅井は、もう一つの課題、女子教育の実現に向けてもまい進した。同僚教師らとともに有力者に必要性を熱心に訴え、明治三十六年、川崎町(現榛原町)の戸塚国次郎町長(一八六六―一九二三年)らの賛同を得て、同町の泰善寺に女学校の東遠音楽会を開校した。翌年、東遠女学会に改称した同校は学芸部と音楽部の二部制。学芸部は十二歳以上を対象に修身、国語、地理、看護、裁縫、料理など幅広い分野を教えた。音楽部には幼稚部を付設し、三歳以上の子供たちの教育も行った。 同校は二年後、閉校したが、培われた女子教育の芽は育ち、明治四十二年の川崎町立榛原女子校開校につながった。榛原郡の教育の基礎は、郷土愛と情熱にあふれた浅井によってつくられたといっても過言ではなく、その偉業をたたえて榛原高校には胸像が建てられた。 同校で教壇に立ったこともある平田寺の竹中玄鼎住職(榛中・昭13年卒)は歴史を振り返りながら、「浅井さんは榛原郡の後継者、後を任せる人をつくるために尽力された。榛原郡にとって大恩人」と話した。 同校で教壇に立ったこともある平田寺の竹中玄鼎住職(榛中・昭13年卒)は歴史を振り返りながら、「浅井さんは榛原郡の後継者、後を任せる人をつくるために尽力された。榛原郡にとって大恩人」と話した。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。 |
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