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 勤労教育 (1)

「人づくり」の小田原勇

 榛原高校の前身、堰南(えんなん)学校を創立した浅井熊太郎(一八七二―一九四四年)が同校の礎を築いた功績者ならば、榛原中学校長として勤労教育を推し進めた小田原勇(一八八三―一九七四年)は同校中興の祖ともいうべき人物だった。

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勤労教育という榛原中・高校のバックボーンをつくった小田原校長愛用の木製机は今も健在。執務しているのは野口正武校長=榛原高校
 堰南学校は設立翌年の明治三十四年には郡立榛原中学校に、大正六年に県立に移行した。規模を拡大するとともに、県下七中学校学力試験でトップに躍り出るなど質的にも充実、名実ともに隆盛期を迎えた。だが、栄光にも陰りが見え始めた。不況、近隣中学校との競合が重なって志願者が減り、教師と生徒の信頼が崩れてストライキが起こった。校内は荒れ、退廃的な雰囲気が漂った。

▼校長着任で荒廃が一変

 川村秀男(榛中・昭5年卒)は当時の様子を書き留めている。「掃除にしろ、朝晩やる必要はなかった。昼休みに一回やれば、よかったし、講堂などは水曜日に一度やれば、一週間平気な顔でいられた。運動場は野原のように草が茂り、その中に寝そべって雑談に花を咲かせるグループがここかしこに見られた」(「創立八十周年榛原高校校誌」)

 見付中学校(現磐田南高校)教頭の小田原が校長に赴任したのは昭和三年十二月。小田原は着任早々、「榛原中学は県下一の劣等中学なり」とあいさつし、生徒の度肝を抜いた。豪胆な気質で知られる鹿児島県生まれ、さらに自己に厳しい島津藩の子弟教育を受けた小田原にとって、榛原中学の荒廃は我慢がならなかったに違いない。そして、同校の様相は大きく変わり始めた。

 それまで着用が自由だったジャケット、外套(がいとう)、手袋、さらに靴下までも使用が禁止された。続いて勤労教育が採り入れられた。校舎内外の整備が手始めだった。教室での授業を済ませた生徒たちはゲートルで足元を固めて、校庭に整列。鍬(くわ)を振るって、ひざまで伸びた雑草を掘り起こした。跡地には芝生を植えたり、花壇を造った。教室や廊下もぞうきんで丹念に拭(ふ)き込み、学校脇の水路は浚渫(しゅんせつ)し、正門前に延長百二十メートルの道路、グラウンド沿いには長さ百メートルの堤防を造った(「同校誌」)。

▼信念に批判はじき飛ぶ

 校舎の変容とともに、生徒の言動、意識も見違えるほど変化した。「寒苦に堪える若人の誇りを感じるようになっていた。堤防を築き上げたころから、鍬、もっこに激しい執着を感じるようになった。中学生の中の中学生になりつつあるとの誇り、躍進してやまない向上心がある」(川村)  一八〇度の転換なだけに、小田原を非難する声も上がった。「上級学校への入学はどうするのだ。あんなことをさせるために学校にやっているのではない」「風邪でも引いたらどうするの」(「創立五十周年財団法人培本塾史」)。だが、そんな表面的な批判は、教育の再建に燃える小田原の信念の前に、はじき飛んだ。「高校の予備校化、偏智主義、画一主義という邪路に迷い込んでいる中等教育にとって必要なのは全人教育と人物の陶冶(とうや)」(「同塾史」)と小田原は「人づくり」にまい進した。
【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。


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