![]() |
|
画一的で知育偏重に陥った教育を是正し、さらに農村の指導者を養成しようとした榛原中学校長小田原勇(一八八三―一九七四年)の勤労教育は作業範囲を校舎一帯から校外の龍眼山に拡大し、生徒の共感も得るなど着実に根を張り出した。だが、予想もしなかった悲劇が襲った。
勤労教育が始まって六年目の昭和十年四月十二日。四年生たちが龍眼山で平地を造るため、斜面を崩していたところ、突然、頭上の山肌が崩壊した。ほとんどの生徒は飛びのいたが、もっこを担ごうと屈んでいた藤野道雄、柴田祐一(榛中・昭和12年卒)は逃げる間もなく土砂に埋まった。二人はすぐに掘り出されたが、藤野は頭部を強打し、死亡していた。 頭に大けがをし、一カ月以上も入院した柴田は事故の状況を鮮明に記憶している。「藤野君の額が陥没して、激しく出血していた。石が当たったためだった。土に埋まっただけなら、量はそれほど多くなかったので、死ぬことはなかった。運が悪かった」。事故の連絡を受けて小田原が現場に駆け付けた。その時の様子を藤野らと一緒に作業をしていた柴清次郎(榛中・昭12年卒)が「創立五十周年記念財団法人培本塾史」で触れている。「先生は藤野君の変わり果てた姿を見て、自分の着ていた服を脱ぎ、それをかけてじっと涙ぐんでいました」。また、柴は「事故当時は小田原校長が切腹をするとか、教頭がこれを慰留したとか、学校の方針が変わるだろうかとか、いろいろな風説が流れたようですが、私たちには何が何だか分からないうちに日が過ぎていったように思われます」と記している。 現在なら学校側の監督責任を問われる事故だったが、処分はなく、小田原は校長を続けた。自己に厳しい小田原のこと、責任を取って辞職することを周囲に明らかにしたと考えられるが、「藤野君の死を無駄にしないためには職にとどまり、勤労教育を続ける以外に道はない」と説得され、踏みとどまったとみられている。 尊い犠牲を伴った試練の後、勤労教育は一層充実し、龍眼山の変容がだれの目にも分かるようになった。「同史」にも、拡大した開墾地にミカンや桃などの果樹、茶が植えられ、それまで「やせ山」と言われて顧みられなかった同山が姿を変えようとしていると記述されている。
しかし、昭和初期の世界恐慌に端を発した農村の不況は収まらず、小田原は農村を再建するための指導者、その養成の場としての農民道場の建設を渇望した。理念、実績とも十二分な小田原だったが、その願いを実現するには資金をどう工面するかという大きな課題が待ち受けていた(「同史」)。 そして、資金に苦悩する小田原の前に「救いの神」が現れた。宮崎県立宮崎中学校教員時代の同僚、成蹊高校(現・成蹊大学)教授の梅地慎三(一八八五―一九六八年)だった。農民道場の計画を知った梅地は幅広い交友関係を生かして、資金集めを精力的に始めた(「同史」)。小田原の夢は一気に実現に向かった。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
掛中・掛西百年史 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |