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 勤労教育 (4)

農民道場「培本塾」が完成

 親友の榛原中学校長小田原勇から農民道場の建設計画とともに資金集めに苦労していることを打ち明けられた成蹊高校(現成蹊大学)教授梅地慎三の動きは素早かった。幅広い人脈を駆使して有力者に協力を求めた。そして支援の輪が瞬く間に広がった。

「創立五十周年記念財団法人培本塾史」に梅地の行動や協力者が拡大する様子が残されている。「梅地教授は宮崎中学校の同僚として心のゆるし合える友人のために何とかしてやりたいと思い、磐田出身で当時内閣書記官長をしておられた柴田善三郎閣下に当たって見ることにした。小田原先生の業績を高く評価している柴田閣下も黙っている訳にはいられない。早速、友人の掛川出身の貴族院議員河井弥八閣下に話をもってゆかれた。その後はとんとん拍子に進んで小田原先生の念願とする塾実現へと近づいていった」

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当時、培本塾があった所には今、榛原高校の研修館「榛の木会館」が建つ(写真中央上部)。一帯は龍眼山=榛原町
▼名だたる有力者が協力

 昭和十年初秋、農民道場の建設に向け、二十人の発起人が決まった。小田原、梅地、柴田、河井をはじめ、浜岡出身の篠田次助陸軍中将、地頭方出身の東大教授鈴木梅太郎、日本興業銀行総裁鈴木島吉、見付出身の元知事県忍、吉田町の貴族院議員中村円一郎、吉田町長の大石廉一、川崎町長の大石仙作、相良町長の鈴木八郎左衛門ら(「同史」)そうそうたる顔ぶれだった。

 国を代表する名士が率先した資金提供、寄付の呼び掛けが功を奏し、間もなく道場を建設できるだけの資金が集まった。「寄付申し込みの総額は団体個人合わせて四十七口、四万円を超える額に達した。当時小学校の校長の月給が百円に満たない頃のことであったため、千円は三、四百万円に匹敵する」(「同史」)。

 名だたる有力者が協力し、多くの寄付があったのには二つの理由がある。一つは、高校への予備校と言われるようになってしまった中学校の再生と不況に苦しむ農村の再建のために勤労教育が全国的に注目されていたことにある。「同史」には、当時の国会で中等教育の在り方を問われた当時の文相が榛原中学を見てくれと答弁した、と記されている。二つ目は、昭和六年の満州事変、翌々年の国際連盟脱退などで国際的な孤立化が進み、国内の軍事色が一層色濃くなったことが挙げられる。農民道場が富国強兵を実現する場として社会に受け入れられた節がある。

▼健全農業で健全国家を

 昭和十年、農民道場の名が培本塾に決定した。「日本書紀崇神天皇の詔勅に『農天下之大本也』『培國本』の文字の中からとったもの」(「同史」)で、健全な農業によって健全な国家を培うとの願いが込められた名称だ。翌十一年、龍眼山中腹に木造建物が完成、端午の節句の五月五日に財団法人「培本塾」の第一回入塾式が行われた。塾生は中卒、高小卒の十四人。綱領に「農村振興、国家発展の礎石たるべき国士的農民の養成機関」と掲げられた(「同史」)。

 戸塚実(榛中・昭14年卒)は「小田原先生は中学校教育の一環として塾をつくろうとしたが、県立中学校には外部からの資金が注入できず、やむを得ず、財団法人にしたらしい。先生は中央の財界、政界を動かし、塾を実現したたいへんな人物」と評した。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。


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