![]() |
|
画一的教育など榛原中学校の弊害の打破から始まり、疲弊した農村の再生にまで目的を拡大した小田原勇校長の勤労教育は昭和十一年春、農村指導者を養成する農民道場「培本塾」の開塾という頂点にたどり着いた。校長に赴任して九年目の偉業だった。 中卒の第一部、高小卒の第二部合わせて十四人の第一回培本塾入塾生は、同校近くの龍眼山中腹に造られた塾舎を拠点に共同生活を開始した。同山は榛中生らが開墾を開始した勤労教育の中心地。塾生は学科の勉強とともに、同山に植えられた茶、ミカン、桃の栽培、牛、豚、鶏の飼育、開墾などの農作業に熱心に取り組んだ。
日課は早朝から夜にわたる厳しい内容だった。「創立五十周年記念財団法人培本塾史」に開塾当初のスケジュールが記されている。午前五時に起床し、五時半から皇居遙拝(ようはい)、君が代奉唱(ほうしょう)、教育勅語奉読(ほうどく)、天皇陛下万歳三唱が続く。朝食後は学科か実習を行い、午後は日没まで実習が組まれた。学科は第一部が土壌、肥料、植物病理、作物、園芸、畜産、経済など、第二部も、そのうちの四科目と教養分野で、両部とも高度な内容だ。 榛中生と塾生との交流も日ごとに深まり、昭和十二年春から始まった静波海岸の開墾では連携の良さが光った。「海岸の開墾は榛中生の勤労教育のもっともよき実践の場だった。海が荒れると堤防も一夜のうちに跡形もなくなってしまう。壊されれば、また造る。この繰り返しの中で、拓(ひら)かれていったのが海岸農地である。拓かれた畑に作物をつくるのは主として塾生の仕事。主食にまた、家畜の飼料として重要な役割を果たした。榛中生と塾生の汗と努力によって海岸農地が切り開かれた」(「同史」)。 近代的な農業知識とともに、実践力を身に付けさせる同塾に全国の注目が集まり、各地の有力者の視察が相次いだ。当時は、日本の傀儡(かいらい)政権、満州国がつくられ、十二年に日中戦争が始まった激動の時代。中国東北部の支配力を維持するために推進された満州農業移民計画の底流にある天皇制農本主義と同塾の理念がほぼ同一であることが関心が高まった背景でもある。
しかし、昭和十六年からの太平洋戦争とともに、指導者の戦死や物資難によって塾本来の教育の継続は難しくなった。榛原中学校自体も同様だった。野川常宏(榛中・昭20年卒)の手記が教育が機能しなくなった様子を表している。「学校生活はすべて軍隊式で、軍事訓練が行われ、戦局がきびしさを増すに従ってその訓練もきびしさを加えていった。五年生の時遂に学徒動員で軍需工場で働くことになり、学校での勉強は完全になくなった」(「創立八十周年記念榛原高校校誌」)。 昭和二十年八月十五日、終戦。国を思う意識が人一倍だった小田原の虚脱感は激しかった。「十一月三日、御真影の前に敗戦のお詫びをし、自室に帰って退職願を書いた」(「新生培本塾」)。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
掛中・掛西百年史 御殿場高 躍進の百年 静岡新聞へ |