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国の将来に強い危機感を抱き、祖国の発展に尽くす農民や若者の育成に全精力を傾けた榛原中学校長の小田原勇(一八八三―一九七四)にとって、それまでの教育が否定されたのにも等しい敗戦は大きなショックだった。国、郷土への思い入れが強かっただけに、激しい脱力感に襲われたに違いない。小田原は昭和二十年の秋、校長を辞することを決意した。 終戦から二十七年後の昭和四十七年、小田原は培本塾同窓会のあいさつで、当時の気持ちを明らかにしている。「ぼくは榛原中学の御真影の前に敗戦のお詫びをし、生徒にそれとなく別れを告げ、自室に帰って退職願を書いた。そして父兄会長の役にあった方の所にいって、お詫びした。すると、『やめたいという話ならあるが、やめたという奴があるか。ただし、培本塾は君のやった仕事だぞ』と言われた。ぼくは正直、郷里の鹿児島に帰って百姓をやるつもりだった。が、それを聞いてこれは申しわけないことをした、と思った。なんとか塾を再興して、この地方の農村の中心地にしたいと思った」(「新生培本塾」)。
父兄会長の言葉でわれに返った小田原は校長は退職したが、農業指導者を養成する培本塾の再建に立ち上がった。塾生たちは再び、書物に向かい、龍眼山の開墾地、静波海岸の農地で鍬(くわ)を振るい始めた。一方、学制改革によって、榛原中学校は榛原第一高校に替わり、昭和二十四年、榛原第二高校(元・榛原高等女学校)と統合して榛原高校に移行した。塾生は同校定時制の農業科に通ったり、逆に榛高生が塾で生活するなど変則的な塾運営が続いた。しかし、間もなく塾生は皆無となり、農業科の廃止によって塾で暮らす榛高生もいなくなった(「創立五十周年記念財団法人培本塾史」)。 荒廃した塾舎は、その後、改装されて、榛高生らの合宿訓練が行われるようになり、“第二の人生”を静かに歩むかに見えたが、大きな問題が持ち上がった。戦後の農地改革の対象から外れ、同塾の貴重な財産だった海岸農地が土地開発の波に飲み込まれようとしていた。売買されて金銭に替わってしまえば、この農地が榛中生、塾生の汗と苦労が染み込んだ開墾地であることが忘れ去られるのは必至。小田原は形あるものにして後世に伝えようとした。「先生は青少年育成、社会教育の拠点として培本塾会館の建設を考えられた」(「同史」)。
小田原ら塾関係者は農地を約三億円で売却し、その資金を生かして、四十七年、龍眼山の中腹に培本塾会館を完成させた。新生培本塾といえる同会館では今、書道、茶道、手芸といった活動、研修会、高校生の合宿などが繰り広げられている。そこには小田原の思いが継承されている。 培本塾理事長の前田茂(榛中・昭12年卒)は「もっこをかついで開墾した生徒たちの汗の結晶として、現在の会館がある。勤労教育を通して、小田原先生は健全なる精神教育を行った」と振り返った。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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