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明治三十五年、榛原郡立榛原中学校の一角に奥行き約十三メートル、幅約七メートルの木造建物が完成した。剣道場「講武館」だ。開館式には学校関係者、行政、士族ら百数十人が出席した。剣道のほか、さまざまな余興が繰り広げられ、式は大盛況だった(「静岡民友新聞」)。
同校北方の牧之原は明治維新後、幕臣が開墾を続けた地域で、指導者だった剣豪中条金之助景昭は士気を鼓舞するため、親友の山岡鉄舟の無刀流の道場を開いた。景昭が死去し、士族の移住も相次いだため、道場は衰退したが、景昭の長男克太郎ら残った士族は「後進の子弟に心身鍛錬の道を―」と徳川家からの学資補助金を同校に寄付した(「同校誌」)。克太郎が、古式にのっとって講武館を設計したという。 講武館には初心と基本の大切さを説いた鉄舟の「春風館掲示」が掲げられ、「同校誌」は「母校剣道は山岡鉄舟の無刀流剣法の流れをくむ剣の道であるとも言える」と強調する。榛中、榛高の剣道は、鉄舟の理念、士族の開拓魂が息づく講武館から始まった。 「榛高剣道」に昭和五年、剣道部員らが国士舘専門学校の剣道合宿に参加した様子が記されている。「参加者は八名であった。練習は朝五時から八時、午後二時から四時の二回、形、基本切り返し、地稽古、試合の五種類であり、その間に諸名士の講演が毎日行われた」。その年、東京高師などが主催する全国大会で榛中は初出場ながら四回戦まで進み、注目を集めた。以降、各種大会で好成績を挙げるようになった。榛中剣道の隆盛期だ。 剣道部員だった高木愛彦(榛中・昭11年卒)は剣道が強くなった理由を国士舘との関係に見る。「榛中剣道部の卒業生であれば、国士舘が入学させてくれる時代が続いた。国士舘で修練し腕を上げた榛中卒業生が母校の剣道を指導し、榛中生が力を付けた」。当時の小田原勇校長が、国士舘専門学校の創立にかかわった国家主義者の頭山満に働き掛け、国士舘の協力が得られたと高木はいう。
そして昭和十六年、全国中学校県予選大会で念願の初優勝を果たした。当時の部員、半田創(榛中・昭17年卒)は振り返った。「一年三百六十五日、毎日練習することを皆で決め、やり遂げた。そのおかげで勝てた。主将の小手が見事に決まり、優勝した時の光景は今でも忘れられない」。そして、「榛中、榛高剣道の強さは培われた伝統にある。これだけの歴史があると簡単には負けられない」と語った。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 (土、日曜日に掲載します)
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