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 藤相線

通学の男女でごった返す

 榛原中学校、榛原高等女学校、榛原高校の生徒にとって切っても切れない縁だったのが、通学に利用した軽便鉄道「藤相線(のちに駿遠線)」。通常の列車より小型で、急坂に差し掛かると止まってしまい、ラッシュ時はすぐに満員となった。列車を押したり、車内に入りきれずに窓にしがみついたりした卒業生も多い。

 同線を所有していた静岡鉄道によると、藤相線は大正二年に開業し、五年後、名前通り藤枝から相良まで開通した。駿遠線となったのは中遠線とつながった昭和二十三年。三校の生徒たちは大正から昭和にかけ、この鉄道を使って母校に通い続けた。

▼坂で乗客が押し上げ

   身近にあり、頻繁に利用していただけに、生徒たちの同線への思い出は尽きない。石上守男(榛高・昭25年卒)は「創立八十周年記念榛原高校校誌」に寄稿している。「長さ四メートルほどの蒸気機関車にとって東海道本線と大井川越えは二大難関であった。坂の手前の駅では蒸気圧を上げるため、十分、二十分と停車することがよくあった。坂の途中もう一息のところで息切れし、乗客の何人かが降りて押し上げたことも度々であった」。

 列車の本数が少ないため、早朝、通学の男女、通勤者が同一の列車に集中し、車内はごった返した。戦後までは、そんな時も男子と女子生徒は分かれて乗車し、車内での会話はほとんどなかったという。だが、思春期まっただ中の世代。「気になる女性と一緒になると心がときめいた」との男子生徒の告白もある。

 戦後、榛原地域の塩、農産物を目当てにした買い出しが盛んになると、混雑ぶりは激しさを一層増した。鈴木五郎(榛中・昭23年卒)は「車内はぎゅうぎゅう詰めでお腹とお腹がくっつくほどだった。中に入れない生徒は窓に腰掛けたり、車外から窓枠につかまっていた。落ちないようにと体と窓枠をロープで結んでいた。それに車外だと煙突からの火の粉が首根っこに入り、熱くて困った」。つかまり続けられずに列車から落ちたり、連結器の上から転落して死亡した事故も起きたが、混乱期だったこともあり、危険と背中合わせの乗り方は後を絶たなかった。

▼勤労動員の足にも

 通学以外の印象も強い。戦時中、軍需工場に勤労動員されることになった生徒たちは国民服、もんぺ姿で藤相線に乗り込み、名古屋や清水、沼津に向かった。学校を離れた生徒たちを待ち構えていたのは空襲に逃げ惑いながら、働く毎日だった。生徒ばかりでなく、出征兵士も同線から戦地に赴いた。住民が振る旗に見送られて出征し、遺骨となってふるさとに戻った兵士も数多い。

 昭和四十一年度の榛原高校学校要覧によると、列車通学者は全生徒の三分の一に当たる五百十四人。軽便鉄道が時代の変化にかかわらず、生徒たちの重要な足となっていたことが分かる。だが、車社会の進展によって同鉄道は昭和三十九年に部分的な撤去が始まり、四十五年、完全に廃止された。現在、線路の跡地は自転車遊歩道などに変わっている。

 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。  


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