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榛原高校の北約十キロにある標高二〇〇メートルほどの高尾山。昭和三年十月十日、静かな山中が突然、騒がしくなった。榛原中学校の生徒たちが立てこもったためだ。同盟休校、いわゆるストライキだった。 「榛原高校百年誌」(十月刊行予定)の資料によると、立てこもったのは五年生の大半に当たる約八十人。学校側の説得だけでは足りず、地域の有力者が乗り出してようやく収拾し、生徒たちは翌日、学校に戻ったという。
最上級生の多くが参加したストライキの原因は何だったのか。運動に対する教師の言動に生徒が腹を立てたとのうわさが流れたが、理由はもっと複雑だったらしい。ストライキに加わった副級長の久保田幸平(榛中・昭4年卒)は「校長の排斥を狙った同盟休校だった」と振り返る。久保田の話や、「同百年誌」が引用する久保田の著書「臍(へそ)曲がり人生八十余年」を合わせると、ストライキの全体像が浮かび上がる。 発端をつくったのは陸上競技部員らしい。昼休みに、「ストの相談をする。放課後、近くの寺に集まってくれ」との連絡が回った。会場では部員が興奮しながら、前日に開かれた県下中学校陸上競技大会の状況をまくし立てた。 「雨の中の大会で他校の教師は傘を差して選手をスタート地点におくった。だが、わが校の教師は体育館の窓から首を出して覗(のぞ)いているだけ。選手はスタート位置に立つまでにすっかりぬれてしまった。教師は宿に帰っても早くから酒を飲み、雨に震えて帰った生徒には誠に冷淡だった」。さらに「これは校長の指導監督が至らないためであり、責任は校長にある」と気勢を上げた。 会場の雰囲気は盛り上がり、満場一致でストライキが決まった。校長の辞職勧告決議文も書き上げた。 決議文を即座につくり上げる手際の良さ、部員らが校長の行動に詳しく触れたことから、一部の生徒の間で「校長に反感を持つ外部の者が校長を排斥するため、裏で部員を指導しているのではないか」との見方が出た。久保田も「会場で聞いた話では、校長の責任を裏付けるまともな根拠はなかった」と振り返った。
しかし、真相は分からず、ストライキは計画通り行われた。生徒たちは翌朝、高尾山に集結し、代表が学校側に決議文を渡した。立てこもった生徒たちは、親の懇願を受け、野営だけは避けたが、山中の石雲院に拠点を移し、ストライキを継続した。中止を決意したのは、地元県議が昭和天皇の即位の大礼が間近であることを挙げて、処分者を出さないと説得したためだった。 参加した生徒の成績表の操行は乙となったが、処分はなく、校長は約二カ月後、学校を去った。通常の人事異動か、この騒動が原因したのかは分からないが、ストライキの目標は達せられたことになった。 代わって校長に赴任したのが見付中学校(現・磐田南高校)教頭だった小田原勇。一転して厳しい勤労教育が始まった。生徒はストライキどころではなくなった。自らの身をどう処すかで精いっぱいになった。 【注】カッコ内の「卒」は卒業年。敬称略。 |
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